2024/05/28

伴走型支援: 新しい支援と社会のカタチ



 奥田知志、原田正樹(編集)


本書は北九州ホームレス支援機構の奥田知志氏と日本福祉大学教授の原田正樹氏の編集だが、第1章から第10章までを10名の方々が執筆されていて、伴走型支援実例報告集のような形式になっている。

伴走型支援はまだ確定的な定義はなく、これからみんなで作りあげていくもの。各人がご自分の仕事の中で試行錯誤している現在進行形の詳細が書かれている。そのエピソードの一つひとつをここでピックアップすることは難しいため章ごとに私がポイントと感じた点を簡単にまとめていく。◆のマークの部分は私の感想を、他の部分は本書を要約して書いていくこととする。





第1章【伴走型支援の理念と価値】

NPO法人抱僕理事長 奥田知志

・伴走型支援とは、社会的孤立に対応するため「つながり続ける」こと。このつながりは助けたり助けられたりという双方向のものである。従来の問題解決型支援と伴走型支援は支援の両輪として実施される必要がある。

・何よりも重要なのは個人が自らの人生を選び取り自分の物語を生きることができるように対話的に実施され、本人主体であること。

・伴走型支援は「専門職領域」と「地域共生社会領域」があり、さらに国の公的な支援が土台としてある。

・専門職領域の働きは主に3つある。

  1. 孤立した人と「つながる」こと 
  2. 地域やキーパーソンへと「つなげる」こと 
  3. 緩やかな見守りを続け、問題が生じれば「もどし」て「つなぎ直し」をすること。この継続的実施が特徴。それゆえに長い時の流れが前提となる。問題解決型は短期集中の点の支援、伴走型は線の支援となる。

◆ホームレス支援の奥田さんが書かれた第1章は伴走型支援とは何かという根本的な部分だが、読者を(貧困対策の)専門員と想定しての内容なのだろうか。少々堅い印象をだった。しかし、支援とはお弁当を渡すことや家を見つけてあげることで終わらず、対話をベースに長期的につながるという説明は非常にわかりやすい。


第2章【なぜ伴走型支援がもとめられているのか】

北九州市立大学基盤教育センター教授 稲月正

 ・社会的な支援には2つの柱がある。1つは包括的な社会保障制度。これは多様な複合的困難に対応する制度の拡充と必要な支出を国が責任を持つことである。もう1つは生活の場である地域社会で問題解決のための制度につなぐ仕組みをつくること。

・自らを大切に思えなくなることが「助けて」という声を奪っている。自分を大切な存在と思えるかどうかは他者との関係できまる。他者との対話を通して自分が危機的な状況にあることが認識できるようになれば「助けて」と言えるようになる。

◆どういう状態が生活困窮状態なのかの考察から始まり、データも豊富に紹介されている。貧困率は1984年が12%で2018年が15.4%である。想像していたよりも増加していない印象だが、金融資産非保有世帯比率や生活が苦しいと答えた人の比率は大きく変動している。データ的な考察から「助けて」と言えない心理的原因まで多様な内容になっている。自分で自分自身を排除してしまうという表現は心に響くものがある。また参考文献も多く紹介されている。


第3章【単身化する社会と社会的孤立に対する伴走型支援】

日本福祉大学福祉経営学部教授 藤森克彦

・社会的孤立は孤独感など主観的なものではなく他者との関係性の欠如といった客観的な状態のことで、次の4点から測定する。

  1. 会話頻度が低い
  2. 困ったときに頼りになる人がいない
  3. 手助けする相手がいない
  4. 団体やグループ活動への不参加

・3 の手助けする相手がいないという点が興味深いが、これは役割を得て他者への支援をすることが自己有益感につながるからである。

・伴走型支援の目的は伴走することそれ自体にある。相談できる相手の存在が大事であり、対話の中から人生の意義を模索し生きる価値を見出す。他者が関わることで困窮や痛みが起こったことの意味を人生の物語の中に位置づけられれば痛みは緩和していく。

◆社会的孤立の測定法があることを初めて知った。1人の時間の貴重さについても触れ、データも多く紹介されている。また、終活的なことにまで言及していることや生きる意味についての考察は面白い。しかし誰かのためと思うことが生きる意味につながるかどうかは性格に左右されるのではないだろうか。


第4章【伴走型支援と地域づくり】

豊中市社会福祉協議会福祉推進室長 勝部麗子

・ 助けてくださいと声を上げることができない当事者がたくさんいる背景に、現代の日本社会が抱える2つの貧困がある。1つは経済的な貧困で、もう1つが人間関係の貧困=社会的孤立である。

・地域社会は理解できない人を排除する側面があるが、その人自身の境遇や背景を知る中で誰にでも(自分にも)起こりうることという認識がひろがれば「我ごと感」が広がって優しくなれる。

・簡単につながっていける人ならば、困った状態にはならない。制度利用に抵抗がある場合も考えられる。一緒に動き、一緒に考え、一緒に怒り、一緒に悲しむ中で、つなぐことが始まっていく。

・一度サポートしても、また生活がうまく回らなくなることも多々ある。専門職は、ときに正しさを振りかざし本人を追い込むことがある。正しさだけでは人は支えられない。優しくあり続けることが力になる。

◆地域の社会福祉協議会という立場からの実例。アルコール依存、ゴミ屋敷、8050問題、引きこもり支援、ホームレス支援など多岐にわたる。非常に興味深い内容が書かれているが一つひとつはここでは紹介できないので、興味のある方はぜひ読んでいただきたい。そもそもSOSを出せない人とどうつながるのか。この部分をしっかり共有できていないと単なるおせっかいになる可能性がある。現実的に考えると非常に難しい問題である。


第5章【アウトリーチと伴走型支援】

スチューデント・サポート・フェイス代表理事 谷口仁史

・アウトリーチ(訪問支援)は、支援を受ける当事者側が拒絶的な場合もある。孤立が長期化した家庭にとりあえず訪問してみるといった行為は取り返しのつかない事態を生む可能性もある。成否の鍵は事前準備段階が握っているといっても過言ではない。そのため、事前準備を次の3段階のプロセスに分けている。

  1. 事前情報の収集と分析 
  2. 支援者としての自己分析と環境確認 
  3. 間接的アプローチによる生きる情報の提供

・人は傷つきを重ねる中で、ストレスに耐える力が極端に弱まってくる。まず徹底的に配慮した個別対応の段階から始まり、小集団活動へ。そこから集団活動へと持っていく。

・孤立が長期化することで深刻化、複雑化した課題を抱える場合も多いため、多職種連携を重視した組織作りが必要がある。国家資格取得者を中心に、キャリアコンサルタント、教員や社会福祉士、精神保健福祉士などが必要に応じてチームを編成することで支援プランの実効性を高めていく。

◆ホームレス支援よりも、一歩進んだ身近な話題であるため面白かった。実際の活動の事例報告のほかに谷口さんがNPO法人を立ち上げるに至った経緯が書かれている。大学時代に家庭教師として関わったADHDの少年とのエピソード。さらに、友人の自殺など。二度とSOSを見逃さないという思いで始めた活動のことなど興味深い内容だった。


第6章【越境する伴走型支援】

社会福祉法人ゆうゆう理事長 大原裕介

・伴走型支援を続けていくためには、一人でフルマラソンを走るのではなく、様々な人たちとタスキをつないでいく必要がある。つなぐ相手がたくさんいればいるほど長く続いていく。

・ 義務的に作るケアプランや支援計画でタスキをつないでいくのは難しい。なぜならそれは、目的ではなく手段にすぎないから。受け取る側にとって伴走していくことにどのような価値があるのか、自分に何がもたらされるのかということがしっかり打ち出されていないと、タスキはつながっていかない。

・ボランティアをお願いするときに押し付けの説得ではなく、対話を繰り返しながら、価値観や考え方を自分たちでしっかり受け止めていくことが必要。共感というのは納得やポジティブなものだけでなくてもいい。違和感や、ちょっとした違いなどを感じるのも共感だと思う。多分相手もそう感じているはずだから。

・フラットな議論ができる場がないと、つながり続けることはできない。様々なアプローチをする人が一つのチームの中にいた方がいい。チームは多様性の中から作られていかないと非常に偏ったものになってしまうからである。

◆北海道当別町での活動は、医療大学時代にダウン症の男の子と出会ったことから始まる。ダウン症の子を持つお母さんの「この子よりも長生きしたい」という言葉に衝撃を受けた大原さん。伴走型支援の中核ともいえるタスキをつなぐことが書かれているが、母親の目線で考えるとやはり一人で背負ってしまうような気がする。それでもそこに寄り添っていく大原さんの姿からは学ぶことが多い。ここでも大切なのは共感と対話であることも興味深い。


第7章【日本における伴走型支援】
日本福祉大学社会福祉学部教授 原田正樹

・伴走型支援とは、その人の存在を基点にエンパワメントやナラティブ(物語)を重視したアプローチである。本人や地域の有している強みに着目して回復力に寄り添っていく。弱さも力になるという視点が大切。

・地域共生社会の理念は「支え手側と受け手側に分かれるのではなく、地域のあらゆる住民が役割をもち、支え合いながら、自分らしく活躍できる地域コミュニティ」を育成すること。 

◆本書の編集を担当された原田さんが他の執筆やの言葉を再掲しながら全体像を語る場面が多い。全体的にカタカナ言葉が多く専門職向けの内容となっている。社会福祉基礎構造改革以降の契約に基づくサービスの在り方は判断が分かれるところだろうと思う。


第8章【伴走型支援と当事者研究】

べてるの家理事長 向谷地生良

・ソーシャルワーカーとして働くなかで専門性を取り去り、当事者としてともにあるというスタイルに変化していった。伴走型支援とは、人と人とが対話を重ねながら、生き方や暮らし方をともに模索するプロセスであり、具体的な生活実践だと理解している。

・留意したいことは、当事者研究の活動は組織や人を支える「人を大切にする文化」とそれを実現するための方法的態度を重視するところに特徴がある。人を変えるための期待を目的としたプログラムやツールではないということである。

◆当事者研究の第一人者、向谷地さんのそもそも論が詰まっている。精神保健福祉士として働いている我が家の娘は、大学時代に「べてるの家」に強い興味を持っていた。大学の実習先として希望を出したほどである。残念ながら実習は自宅から通える施設が条件だったため実現はしなかった。私も娘の影響で何冊か本を読んだ記憶がある。本書の内容は簡潔にまとめられていて読みやすく、専門職以外のかたでも理解しやすいと思う。


第9章【伴走型支援は本当に有効か】
毎日新聞記者・論説委員 野澤和弘

・ 現在の社会保障は現金の給付と、医療や福祉サービスの給付によって成り立っている。サービスの内容は訓練的な意味合いのものが多い。就労を軸としたサービス体系を整備し、就労障害者が働いて自立できることを目指している。しかし何をもって自立と考えるかは立場によって大きな違いが最近は少子高齢化による社会保障費の膨張を抑えるため、あらゆる分野で自立や自己責任を求める圧力が高まっているように感じる。このような福祉制度や思想的な文脈の中で、伴走的支援にどんな意味を見出すことができるのか、どのように位置づけられているのかを考えていかねばならない。

・ALS患者である岡部宏生さんは、「支援はdoingばかりではなく、beingが最高のときがしばしばある」と言っている。doingは具体的に何をするかということ。beingはただ一緒にいることである。現在の社会保障は自立というゴールを定めそこに向けて当事者に福祉サービスを提供するまさにdoingの支援だが、訓練を主とした福祉サービスでは救えない人がいる。しかし、経済的な生産性を重視する価値観からすれば、ただ一緒にいるということが公費を投じる支援と言えるのかという疑問を持つ人もいるだろう。

・これまでは判断能力やコミュニケーション能力にハンディのある人の場合、家族や支援者が実質的にほとんどのことを決めてきた。しかし、本人の意思を汲み取ろうともせずに、家族や支援者が勝手に決めるのはおかしいのではないか。本人中心の支援を考えていかなければならない。そんな考えから、意思決定支援というものが現在は模索されている。

・人生という舞台を走る主人公はあくまでも本人。支援者はあくまでも隣を伴走する人でしかあり得ない。先入観を排除し、あらゆる場面で本人の意思決定の参画を促し、本人の意思を支援者側が探求していくことが必要とされている。

◆本書の中で1人だけ新聞記者という特殊な立ち位置だが、それだけにわかりやすいという側面がある。ALS嘱託殺人の概要も書かれていて、自立の意味、命は誰のものか、というような深い内容にも触れられている。beingを「ただ一緒にいる」と定義付けている。私はいつもbeingは存在するという意味だと考えてきた。最近はウェルビーイングという言葉が流行っているが、よりよく生きると考えるとき、このビーイングは何かしら意味のあることをするdoingに近い。単なる言葉の問題でしかないのかもしれないが、「ただ一緒にいる」という解釈は嬉しい内容だった。


第10章【伴走型支援が作る未来】
津田塾大学客員教授 村木厚子

・伴走型支援という言葉から連想するのは「親」の役割であるが、親や家族の支援と福祉のプロが行う伴走型支援とはどう違うのか。当事者に長く寄り添い、一定の距離を置きながら、専門的、体系的な知識、ノウハウを持って支援するというイメージが社会福祉としての伴走型支援である。

・子育て4訓では寄り添うことと手放すことの大切さを教えてくれている。この手放し方が難しい。子育ての極意でもある。

    1. 乳児はしっかり抱いて肌を離すな
    2. 乳児は肌を離せ、手を離すな
    3. 少年は手を離せ、目を離すな
    4. 青年は目を離せ、心を離すな
プロの伴走型支援もいずれは支援を必要としなくなってくれることを目指しながら、関わり方、手放し方を模索していく。

・市民に理解をしてもらい社会資源を増やして参加のハードルを下げていく。本人の成長・エンパワーに応じて、本人とつながった社会資源の豊かさに応じて、プロの伴走型支援者は心を通わせつつも手は離していく。そして危機が訪れればまた抱き留める。寄り添いながら耕していくのが伴走型支援である。

◆村木さんは郵便不正事件で身に覚えのない嫌疑をかけられたときに、人は一夜にして支えられる立場になると気づいたとのこと。支える側と支えられる側の人間がいるのではなく、支援とは関係性なのだとあらためて思った。


◆全体を通して・・・
様々な活動の中での様々な伴走型支援が語られているが、共通しているのは「助けて」と言えない当事者の心理と日本社会の特徴である。そして対話の重要性。コミュニケーションは生きることの根幹なのである。私は要約筆記者としてコミュニケーション支援に関わっているが、残念ながら現時点では点の支援である。通院や会議や役所の手続きなどの困りごとに対応することと、伴走型としてコミュニケーション支援することは違う。どうすれば寄り添っていけるのか。難しいことではあるが考え続けることに意味があるのかもしれない。

2024/03/18

コリーニ事件


フェルディナント・フォン・シーラッハ(著)

ベルリンで刑事事件弁護士として活動。元東ドイツ政治局員ギュンター・シャボフスキーや、ドイツ連邦情報局工作員ノルベルト・ユレツコの弁護に携わり、ドイツでも屈指の弁護士と見なされている。








本書は結末の意外さで話題になった作品である。世界的ベストセラーになり映画化もされている。リーガル・サスペンスとしての面白さはもちろんだが、ポイントとなるのはドイツで1960年代に行われた第二次大戦中の残虐行為に関する捜査である。


(ネタバレを含みますのでご注意ください)


大虐殺に関わった将校や親衛隊が次々と裁かれる中で、1968年に秩序違反法の一部が改正された。このことにより関与した人物の多くが、ただ命令に従っただけだったとして謀殺罪ではなく幇助罪で裁かれることになった。そして幇助罪の時効は15年。1960年代にはすでに時効が成立していたのである。



主な登場人物は


・ファブリツィオ・コリーニ

イタリアからドイツにやってきて真面目に35年間働いた67歳の自動車組立工   


・ハンス・マイヤー

機械工業会社の元社長、85歳。


・ヨハナ・マイヤー

ハンスの孫娘


・リヒャルト・マッティンガー

マイヤー家の弁護士で裁判の代理人


・カスパー・ライネン

コリーニを弁護する新人弁護士



 

・物語は2001年、コリーニがハンス・マイヤーに4発の銃弾を撃ち込み殺害するシーンから始まる。コリーニはすでに息のない老紳士の顔を頭蓋骨が砕けるほど執拗に踏み続けた。いったい2人の間になにがあったのか。


・このあとはライネン弁護士の視点で描かれていく。弁護士になったばかりのライネンはコリーニが最初の依頼人である。国選弁護人として深く考えもせず引き受けた弁護で大きな苦しみを背負ってしまう。


・コリーニは犯行を自供したものの動機は黙秘し続けた。状況からみて復讐にまちがいないが2人の接点は全くみつからない。家宅捜査からも何も見つからなかった。そもそもコリーニは真面目で几帳面で仕事を休むこともほとんどなかった。独身で質素な生活。大会社の元社長であるハンス・マイヤーと知り合う機会さえなかったはずである。ライネンは凶器が第二次大戦中ドイツ軍用銃だったワルサーP38であることに注目して調査を始める。


・大きな動きがあるのは第七回公判。物語の中盤を過ぎてからである。静かな法廷で陳述書を読み上げるライネン。それはコリーニが9歳のとき、6歳上の姉と父がドイツ兵に殺害された顛末である。当時の親衛隊大隊指導者ハンス・マイヤーの名前が読み上げられると法廷の空気も一変した。


・被害者と加害者の接点が不明なときは無差別殺人か狂気によるものと思われていたが、ここにきて復讐であることは明確になったのである。しかし、なぜこんなにも年数が経過してからの復讐なのか。理由は2つある。


まず1つ目は、コリーニの伯母が亡くなったことである。イタリア在住の伯母はドイツは人殺しのいる国と言って、コリーニがドイツで働くことをいやがっていた。コリーニがドイツの刑務所に入るようなことになったら心臓がつぶれてしまうだろう。伯母の死を待っての犯行だったのである。


2つ目は、冒頭で書いた秩序違反法の一部が改正されたことと関係している。1968年にコリーニは証拠を上げ検察局にハンス・マイヤーを告発したが、時効により捜査は打ち切られ起訴されなかった。これはハンス・マイヤーに罪がなかったということではない。大戦中はイタリア国内でドイツ兵を狙うテロが多数起きていた。ドイツ軍はテロで死んだドイツ兵1人につきイタリア人10人を殺害するよう指示していた。それはテロの抑止として認められていたとのことである。ハンス・マイヤーの行為は犯罪なのだろうか。


・陳述書により法廷の空気は一変したがそれでもコリーニの罪が消えるわけではない。裁判は誰も思いもしない結末へと向かっていく。




本書の面白さは裁判のシーンだけではない。母親がいなかったライネンは子ども時代にマイヤー家で家族同然に過ごした時期があった。そしてヨハナとは恋愛関係にある。恩人を殺した犯人の弁護を引き受けてしまった。ハンス・マイヤーは日常生活で使用していた通名であった。調書や勾留状に書かれた本名を見ただけでは恩人と気づかなかったのである。


・このまま裁判を続けていいのだろうか、悩むライネン。そのライネンを救ったのは被害者側の代理人弁護してあるマッティンガーだった。

弁護人が任を解かれるのは依頼人との信頼関係が揺らいだときだけである。今回の弁護を引き受けたのはライネンの過ちだったとしても依頼人に対して責任がある。依頼人が望めば弁護を続けなければならない」老弁護士マッティンガーの言葉が刺さった。


・ヨハナとの関係もライネンに重くのしかかってきた。ハンス・マイヤーの大戦中の行為が暴かれたなら2人の関係は終わってしまうだろう。それでも結局ライネンは真実を明らかにする道を選んだ。何年にもわたって刑事訴訟を理解しようと努めて教授から学んできたが、この裁判でライネンは全く違う学びを得た。それは虐げられてきた人のことを一番に考えなくてはいけないということだった。



【あとがき】より

著者 フェルディナント・フォン・シーラッハについて


著者の祖父バルドゥール・フォン・シーラッハはナチ党全国青少年指導者であった。独裁政権の中心人物の一人であり、ニュルンベルク裁判で禁固20年の判決を受けた。著者が12歳のときに教科書を見て祖父のことをはじめて理解した。また、同級生にはヒトラー暗殺計画に参加して処刑された人物の孫もいた。彼も自分の祖父のことを12歳になるまで知らなかった。2人は大人になっても友人同士であるとのこと。詳細はエッセイに書いてあるらしいので興味のある方はぜひ読んでみていただきたい。



◆初読は2022年、そのときはただただ衝撃を受け、ストーリーに圧倒されたことを記憶している。今回、ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」に興味を持って何冊か本を読んだことをキッカケに「コリーニ事件」を再読してみた。今回は時間をかけて2度読んで考えた。しかし、何かがわかったとは簡単には言えない。何かに盲目的に従うのではなく自分らしく生きることだと理解はしても余りにも大きな問いかけである。


◆秩序違反法をめぐり、犯罪とは何か、さらに弁護士の仕事とは何かという2つの大きな問題が投げかけられている。余りにも大きな問題なので、どう受け止めていいか困惑する場面も多々あった。


◆秩序違反法は表向きにはナチ関連の裁判を止めるために改正されたわけではない。多くの国民は本当の意味がわかっていなかったというのが現実のようである。議会側には、もうこの辺りで戦犯を裁くのはいいだろうという思惑があったのだろう。戦争中の残虐行為の一つひとつを裁いていたのなら、いつになったら裁判が終わるのかわからないというのが本音だろうか。


◆被害者ハンス・マイヤーは会社の代表として多くの人から慕われ、ライネンにも親がわりとして愛情をそそいできた。一方で加害者のコリーニも真面目な手堅い人という評判だった。なぜあんなにいい人が・・・という思いが本書の雰囲気を作っていると言っても過言ではない。それはまさに、誰もが状況によっては凡庸な(陳腐な)悪に傾く可能性があるということでもある。


◆コリーニは「死者は復讐を望まない。望むのは生者だけ」とライネンに語っている。復讐の虚しさを理解しながらも止められなかったコリーニの思い、揺れ動きながらも弁護士としての矜持を忘れなかったライネン。静まりかえった法廷で陳述書を読むシーンではライネンの声が本当に聞こえてくるかのようであった。


◆誰かと話をしたいと思っても、マイヤー家との絡みから誰にも心を開くことができないライネン。孤独との闘いでもあった。蚤の市にも行き、雑多なものを見てまわり、若い恋人同士のデートを眺め、呼び込みの男の口上を聞くライネン。感情的にならない淡々とした文章が却って涙を誘った。


やはり最後はヨハナである。「わたし、すべてを背負っていかなければいけないのかしら」と呟くヨハナ、「きみはきみにふさわしく生きればいいのさ」と応じるライネン。後日談をエピローグとして書かなかった著者のセンスに浸りながら読了した。




2024/01/28

スピリットベアにふれた島


ベン・マイケルセン(著)

アメリカ合衆国の児童文学作家。南米、ボリビアで生まれ育つ。米国西北部、モンタナ州ボーズマン在住。研究のために捕獲され、殺されそうになったアメリカクロクマを保護し20年前からいっしょにくらす。徹底した取材にもとづく作品には定評があり、8作品で30近い受賞をするなど、各方面から高い評価を得ている。




・主人公のコールは同級生のピーターに重傷を負わせてしまう。15歳にして何度も警察のお世話になっているコールは刑務所に入る可能性もある。福祉・医療関係者や警察官など手を差しのべる人々は多い。しかし少年から見れば、それらの人々は上辺だけの思いやりを見せる嫌な大人でしかない。コールの嘘と凶暴性は増すばかりであった。


・本書の登場人物は少ない。コールとピーター、お互いの両親と弁護士。更生の手助けをする老人エドウィン、保護観察官のガーヴィー。このガーヴィーが本書で重要な役割を果たすことになる。まずガーヴィーはコールを刑務所に行くことなく更生させるため「サークル・ジャスティス」へと導く。



『サークル・ジャスティス

これは通常の裁判とは異なり、被害者と加害者、双方の家族、地域住民などが参加して文字通り輪(サークル)になって座り、一人ずつ発言していく。処罰を決めるものではなく、あくまでも双方の関係性を修復する修復的司法と言われている手法である。



・ガーヴィーは、アラスカの無人島でコールが一人きりで一年間生活しながら更生する案をサークル・ジャスティスに提出し承認を受ける。物語の前半「第一部」でのコールは凶暴で誰のことも信じず、島の小屋を燃やして逃げ出そうとする。しかしどんなにあがいても少年の力では島を脱出できない。親切な人間さえも疎ましく思い悪態をついてきたコールだが島で本物の孤独を知るのである。



『スピリットベア

本書のタイトルにも入っているスピリットベアは、本来は黒い毛のアメリカクロクマの亜種で、 アラスカ先住民が精霊の熊と呼んでいる白い毛のクマである。

 

・この白いクマにコールは襲われて瀕死の重傷を負う。孤独とケガ、嵐と寒さと飢え、極限状態でコールは「生きたい」と強く願う。老人エドウィンによって救出されたコールは再びガーヴィーやサークル・ジャスティスのメンバーと一緒に今後のことを考える。


・生まれ変わったコールを人々は簡単には受け入れてくれない。スピリットベアに襲われたことも嘘と受け取られてしまい事態は悪化する。本来のスピリットベアの生息地はコールの行った島からは遠く離れていること、そもそも亜種であって稀なクマであること、コールの話はいつも嘘であることなどが原因となった。


・ガーヴィーとエドウィンは諦めることなく人々を説得しコールは再び島へ。第二部は島でのコールの更生の道、怒りとの向き合い方やピーターとの関係修復が中心に描かれる。前半は暴力、嘘、島での悲惨な出来事が続く。ザワザワ感が続き途中で読むのがしんどくなるが結末は爽やかである。諦めずに最後まで読んでよかったと思える作品である。



◆ここまではストーリーを追って本書の概要を書いてきたが、第二部で描かれるコールの日常生活に関しては本書を読んでいただきたいとしか言いようがない。この後はコールの心境の変化について、心に残ったフレーズを4つピックアップして書いていきたいと思う。



①人生はすべてホットドッグだ  

コールは空腹に耐えられなくなって急いでソーセージを焼いてパンに挟んで食べた。そのあとガーヴィーは丁寧にソーセージを焼いて味付けし、エドウィンとコールと自分用に3つに切って分かちあった。そのときにガーヴィーがコールに言った言葉である。「おまえのホットドッグはただの食べ物だった。なぜならおまえが、そうであることを選んだからだ。人生はすべてホットドッグだ。自分の人生を自分の望むようなものにしろ」

◆丁寧に時間をかけて日々の暮らしを営むこと。分かち合うこと。日々を祝いの日にすること。少々乱暴ではあるがガーヴィーらしさ全開で人生指南をしているシーンが何ともいえない余韻となって残っている。



②人は死ぬまで、怒りをを捨てるために枝を折りつづける

枝はエドウィンがコールに手渡したものである。「この枝の右端はおまえの幸せ、左端はおまえの怒りだ。左端を折って怒りを捨てろ」コールは左端を折り取る。しかし、エドウィンは「まだ左端が残っている」と言う。枝を折るコール。まだ残っていると言い続けるエドウィン。どんなことをしても枝には左端が存在するのである。「人は死ぬまで、怒りを捨てるために枝を折り続ける。だが、怒りは必ず残り、捨てきれなかったと感じる」

◆私はこのシーンが一番好き。だれもが心に怒りを抱えているが幸せの種も持っているということ。またそのあとにエドウィンは幸せも怒りも習慣だと言っている。習慣だから変えられるのか、習慣だからなかなか変えられないのか。どんなことに目を向けて日々の生活をおくるのか。自分で選べとコールに語りかけているエドウィンは暖かい。



③その時は、だれかほかの人間を助けてやれ

コールは被害者のピーターに償いたいと思っている。ピーターは重症を負わされてから、ずっと引きこもって自殺未遂を繰り返している。コールは赦すことを学んだ。腹をたてれば感情を支配する力を他人に与えてしまい操られるのだ。しかしコールは赦すだけでは何かがたりないと感じている。どうにかしてピーターを助けたいが、ピーターはその気持ちを受け付けない。このまま助けられなかったらどうする?というコールの問いエドウィンは答える「その時は、だれかほかの人間を助けてやれ」

ガーヴィーとエドウィンも過去に罪を犯しているのであった。 罪の償い方、更生の仕方も様々あると思うが、その一つが人を助けることである。被害者本人と接触が叶わない場合もある。そのときは別の形でだれかの役に立つことが癒しと償いになると2人とも語っている。被害者と関係を再構築できない状況は実際には多いのではないかと思う。小説のように上手くはいかないだろう。しかし大きな事件ではなく、日常の人間関係で考えるとどうか。修復的な関係作りというのはできるのではないだろうか。だれかの役に立つという考え方も同じである。コールは自分は大きな輪(サークル)の一部であると最後のシーンで語っている。どの部分も始まりででもあり終わりでもある。そしてすべてはひとつだ。



④見えない存在になるには、心を無にしなければならない
もう一度スピリットベアに会いたいとコールは思い続けるが、遠くに姿を見ることはあっても近づいてこない。エドウィンの助言やコールの島での体験をもとに考えると、スピリットベアと対面するためには見えない存在にならなければいけない。苦悩の中でコールは、「見えない存在になるには、心を無にしなければならない。それが秘訣だ」と理解する。見えない存在になるとは姿を消すことではなく意識を消すことである。
◆動物は本能と感覚の世界で生きている。人間は心の平穏や無の境地をなかなか持てない。以前のコールは周囲に悪意をぶつけたり、危害を加えようとしていた。心を無にするとは、同じ風景に溶け込むこと、呼吸を整えること、など様々な表現を駆使している。これはストーリーの中のニュアンスでしか理解できないのかもしれない。伝えることは本当に難しい。



◆修復的司法とはどういうことなのだろうか。裁判で裁かれるということは有罪か無罪か白黒つけることである。日本の社会では被害者救済という観点がかなり抜け落ちている感じで進められるようだ。本書に出てくる サークル・ジャスティスでは、最初は参加者は輪になって座っている→キーパー(司会)の声に従って立ちあがり両隣の人と手をつなぐ→着席しキーパー(司会)が一本の羽根を参加者の一人に渡す→羽根を持っている人だけが発言する→次の人に羽根を渡す。求められるのは誠実さと敬意だけ。被害者の立場、加害者の立場、それぞれに考えるのではなく、最終的にはどのようにして壊れた人間関係を修復しながら日々を幸せに生きるか。関係性を修復するということ。コールの島での生活は今すぐ結論を出すようなものではなく、大人たちに見守られながら歳月をかけて更生していく。非常に暖かく、そして厳しく、考えさせられる作品という読後感である。


◆つい最近私は、帚木 蓬生さんの「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」という本を読んだが、その本の中に日薬と目薬という言葉がでてきた。「日薬」とは、すぐには解決しないこと。待つうちに事態は自然と何とかなるようになるという考え方。「目薬」とは、人は見守ってくれる目があると苦しみにも耐えられるということ。ネガティブ・ケイパビリティは日本語では消極的能力」と訳されている。性急にアドバイスしたり答えを出させようとしない待つ能力ということになるのだろう。ガーヴィーとエドウィンの2人にはネガティブ・ケイパビリティに通じるものがあるのではないだろうか。



◆本書は中学校の課題図書になっているが、深く考えれば答えの出ない問題も多く含まれている。中学生が読むには難しいのではないかと思う。その反面、コールやピーターの怒りを一番共有できるのは同じ年齢の少年少女たちなのかもしれないという感じもする。完全にわからないなりにも何か感じるものがあれば、成長とともに何かを抱え込んでしまったときなどに、繰り返し手にとる本となるのかもしれない。いや、そうなってほしいと思う。











2023/12/26

共感的コミュニケーション

 水城ゆう(著) アイ文庫

 

◆のマークの部分は感想を書いています。その他の部分は本書の内容をまとめています。



水城さんは、NVC(非暴力コミュニケーション)を学ぶ中で、ご自身が理解・体験したことを書き残してきた。

NVCと共感的コミュニケーションはどう違うのか。答えはシンプル、「同じ」であると水城さんは答えている。

NVCは、英語圏、キリスト教圏における言葉遣いや、論理構造、発想法から生まれている。そのためNVCを学び始めたころ強い違和感を覚える人も多い。NVCを日本人に使いやすいようにするという発想で書いたという側面もある。NVCの精神を受け継ぎ、自分なりに修練し、理解を深めたものをより多くの人に知ってもらいたいと考えてまとめたのが本書「共感的コミュニケーション」である。NVCのエキスをわかりやすく解説した部分と、学ぶ中で感じたことをエッセイ風に記した部分とが混在している。

NVCの詳細については、

「NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法 新版」を参照していただきたい



◆私は2016年に水城さんの共感的コミュニケーション(2015年版)を読んでいるが、その本は現在は販売されていない。2017年に新装版が出版され、2018、2019年と続編が出ている。今回はこの3冊(2017~2019)の中からいくつか心に残った点を、ピックアップしてみたいと思う◆




【共感的コミュニケーション2017】


・共感的であるというのは、お互いに大切にしていることを尊重し合うこと。相手が大切にしていることに興味を持ち続けること。これが共感的にコミュニケーションをするための基本姿勢となる。



・共感を向ける方法はシンプルで、相手が大事にしていること、必要としていることを知り、それを尊重する。ただそれだけ。決して言われてもいないことを察して先回りして相手の望みを叶えることではない。



・『あなたが○○な気持ちになっているのは、○○を大切にしているから。○○が必要だからですか?』という文法で質問を投げかける。すると相手は「そうだ」とか「違う」とか答える。そのとき相手は必ず自分の内側を見て、自分が何を大切にしているのかを確認するのである。


・誰かに評価されることは大切なことのように思えるが、それ自体が価値があるのではなく評価されることは手段である。人に評価されることによって自分の何が満たされるのか、ということである。


・楽しい気分→良い。落ち込んでいる→良くない。このように自分を批判、評価してしまうのはいずれも自分をないがしろにしている。感情はどんなものであれ自分が何を必要としているのかを示す大切な指針である。自分自身をないがしろにしないためにはこれを丁寧に扱う必要がある。


・満たされなかったニーズがある場合は十分に嘆く必要がある。十分に嘆かれていないニーズは自分の中にしこりのような禍根を残し後で悪さをすることがある。十分に嘆かれたニーズは自分の中に大切なものとして存在し再び満たされる機会をうかがう。


・誰かの悪口、決めつけ、あの人から嫌われているとかいうジャッジは、ときに快感である。自分の安全安心のニーズから生じる行為である。そこに自分のニーズがあることを否定する必要はない。ただし、それを相手に直接ぶつけると対立を生むことになる。自分の中や信頼できる仲間と十分に毒を吐いてみることも時には良い。十分に楽しんだなら共感の世界に移行しよう。


・身近な関係でコミュニケーションの方法がパターン化していて、共感的なコミュニケーションへと移行するのが難しいこともある。そこから抜け出すには、まず非共感の鎧を脱ぎ、正直で無防備になる必要がある。非共感の鎧とは人を決めつけ評価し判断し、分析し、非難し、アドバイスし、同情し、こちらの思考で相手のことをあれこれ考えてやってしまう反応のことである。


・小学校でいじめ防止プログラムとして、友達の良いところをあげて発表するという方法がある。子どもたちの繋がりをつくるように見えるこの方法も評価方式の上に成り立っている。良いと評価することは悪いと評価することと表裏一体、同じ心理で行われている。同情ではなく共感する。それはお互いの違いを受け入れることであり、お互いが大切にしていることを尊重し合うこと、評価システムではそれができない。



◆ほんの一部だけポイントを取り上げたが、具体的な事例も多数書かれている本なので興味のある方はぜひ読んでみていただきたい◆




【共感的コミュニケーション2018】


2017のリリース後に行った勉強会や活動のなかでの気づきを書いた本である。


・あらためて共感を考えてみる。

誰かに共感する、ということは結果ではなく、その過程であり態度/ありようが重要なのである。この人は何を大切にしているのだろうと、相手に興味を向けるとき、あなたのその態度/ありようが変化している。その変化しているあなた自身の様子のことを共感的という。


・感謝するとはどういうことか。

人は2種類のことしか言っていない。「ありがとう」と「お願い」だ。これはマーシャル・ローゼンバーグの言葉である。ありがとうはニーズが満たされたとき、お願いというのはニーズが満たされていないとき。感謝するのは、誰かに強制されたり何らかの手順の中で決められた通り行うものではない。何らかのニーズが満たされたとき、ありがとうが自然に出てくるのだ。


・対立は手段のレベルで生まれる。

互いに自分の手段を手放さず、執着してこだわっている限り対立は解消されない。手段のレベルからその手段を取ろうとしているのは何のニーズがあるからなのかというレベルへと降りていったとき、そこには対立ではなく相互理解が生まれる。


・人間にはもともと、相手の感情や動作、姿勢を無意識に写し取ってしまう心の働きがある。社会的な動物として必要があってそういう働きを持っている。だが、ときにはそれがやっかいなことを引き起こす。では、どうすればいいのか。

①その場を離れる。逃げるというのも一つの方法。

②相手の言動や感情は、相手のニーズが満たされたり満たされなかったりしているために現れているもので、こちらとはなんの関係もない。つまり、相手が何を大切にしてるのか、どんなことを必要としているのか、そのことに注意や好奇心を向けていくのだ。そのとき、こちらはこちらのままでよく、相手の言動や感情に振り回されることなく、ただ相手に好奇心を向けていくだけだ。


・特定の相手に何か言われると反射的にカッとなって決まりきったパターンで返してしまう。その相手の言動を変えることは難しい。こちらが変わるためには、「なるほど、自分はこう言われるとこんなふうに反応してしまうんだな」と客観的に理解ができるかどうかがポイントになる。


・「ただ共感すること」を勧めると、そんなことをしたら、相手はますます図に乗るのではないか、自分ばかり不利な立場になるのではないかという不安に襲われてしまう人がいる。しかし、今相手が必死にしがみついている方法でなくても、ニーズは満たせるということに気づいてもらえれば、相手にも余裕が生まれ必死の態度は消えることが多い。


・共感的コミュニケーションでは「コンテンツを聞くな」という。つまり相手の言っている内容や意味をできるだけ聞かないようにしようと言っているのだ。代わりにそこに見える相手の様子、感情、ニーズなどに注目する。


◆水城さんが作家活動や朗読療法、共感カフェなどの多彩な活動のなかで日々感じていることがエッセイ風に書かれている。




【共感的コミュニケーション2019】


共感的コミュニケーションの勉強会が増え、自ら教える人も急増してきている。希望を感じると同時に、形骸化が起こったり似て非なる偽物が蔓延したりするのではないか。どのようなスタンスをとっていくか模索し続けた一年間の記録である。



・2019は「縁側の復権」というタイトルがついている。昔の家には縁側があった。そこでは、おばあちゃんや母が自然に、ただ自分の仕事にマイペースで没頭していた。つまり、おばあちゃんや母は自分自身に繋がっていたのである。いつもそこにいて話を聞いてくれる。彼女たちはただ自分のことをしていて、しかし同時にこちらにも耳を傾けていて、どちらも積極的な感じはどこにもなかった。自分のことをするのも、遊んでいる子どもを見守るのも、積極的にではなく自然にごく普通に行っていた。そのことが私を安心させていた。共感的コミュニケーションにおいて、もっと自然に普通に人と人が繋がって安心し合える関係を持つことはできないだろうか。


・人の話を共感的に聞くというのは、その人にきちんと向かい合い、話を完全に受け取り、集中して感情とニーズに注意を向けることだと考えて努力をする。しかし相手にとって、そんなふうに全力で聞かれるのは一種のプレッシャーになるのではないか。


・いつでも共感的であればならないという一種の強迫観念に似た自分教育が生まれることがある。相手に対しても自分に対しても、いついかなるときでも常に共感的であり自分と相手を尊重し、思いやりを持って繋がることを目指すことを自分に強要してしまう。しかしそんなことはなかなか難しい。もちろんそれは理想であるが、共感にも様々の濃さや姿勢やベクトルがあっていいのではないだろうか。


・「自分がやりたいことだけやりなさい。やりたくない、気が向かないことは一切やらない方がいい」とマーシャル・ローゼンバークは説いている。すると「そんなことをすると世の中が混乱するんじゃないですか」と聞く人がいる。その心配も理解できるが、わがままに振る舞うことと、自分のニーズに忠実で正直であることは別のことである。


・わがままというのは、互いに主張し合って対立することである。さらに一歩踏み込んで、自分は、あるいは相手は何を必要としているからこそ、そんな方法を主張しているのだろうかと見ていくのが共感的コミュニケーションの方法である。そうすれば、お互いのニーズをないがしろにせず協力し合ってやっていく方法はないものだろうかと考え始めることができる。


・共感的コミュニケーションの考え方や権利は非常にシンプルでわかりやすく、誰でも伝えることができる。問題は、実際にそれを実践できるようになるかどうかだ。ワークショップや勉強会でも実践的な練習を提供している場はあるが、日常生活の中で参加者がそれぞれやってみて、実際に身につくようになるかというと、それはまた別の話である。共感的コミュニケーションを身につけるには、練習そのものを習慣化する必要がある。


◆2019の後半では、様々な練習方法(習慣化させるための方法)が紹介されている。主なものは、共感手帳(エンパシーノート)、共感カフェ、共感文章講座、ブログ「水の反映」、音読療法、編み物カフェ、などである。詳細な実践方法については、本書を実際に読んでいただきたい。音読療法については音読療法の基礎という本も出ている。日々の健康法や介護予防、うつなどこころの病の予防法としても効果がある音読療法(自分自身の呼吸と声を使ったセルフメンタルヘルスケア)は、深呼吸というよりも音読で息を吐くことに重点をおく感じである。また、文学作品など他人の書いた文章を読むことで、自分の内部の雑念や感情、反芻思考を手放していく方法でもある




◆2017~2019の3冊を読んで感じたことは非常に正直に書いているということである。NVCを学び、実践するものとしての気負いはまったく感じられない。むしろ他人に共感できないときや愚痴がとまらないときにこそ自己共感のチャンスとして優しく捉えていることに癒される思いである◆


◆NVCにはKD(Key Difference)といわれているカギとなる差異がある。わがままと正直は違うというような小さな違いのことである。この3冊には日々感じる小さな出来事を掘り下げる内容が多い。似ているようだが「これとこれは別物だ」 「こういう考え方はまた別だ」というような表現を多用することで理解しやすい文章に仕上がっているのである。日本人が馴染める表現にするという水城さんの熱意と繊細な感性が伝わってくる清々しい読後感だった◆


◆2016年にはじめて共感的コミュニケーションを読んだときには、正直なところ本質的なことは理解できていなかった。2016年当時は音読のテキストを探していたような記憶もある。もしかしたら共感に重点をあまり置いていなかったのかもしれない。最近になってマーシャル・ローゼンバーグ氏の本を3冊読んだところ、少しずつだが何だかわかってきたような気がしている。そしてそのあとに水城さんのことを思い出してAmazonやブログをあらためて拝見した(そこで水城さんが2020年に旅立たれたことを知ったのである)私は遅々とした歩みで行きつ戻りつしながら学んでいるので、ここまで来るのに7年もかかってしまった。もっと真剣に学んでいたならば、とっくに人生変わっていただろうという後悔もある。しかしこれが私なのだと受けとめることにした。そしてこれからも遅々とした歩みで迷走しながら学んでいくことだろうと思う◆










2023/11/28

【NVC】人と人との関係にいのちを吹き込む法

 



アメリカの臨床心理学者
マーシャル・B・ローゼンバーグ(著)

◆のマークの部分は感想を書いています。その他の部分は本書の内容をまとめています。





 

 

『NVCとは何か』

 

NVCが、基盤としているのは、過酷な状況に置かれてもなお人間らしくあり続けるための言葉とコミュニケーションのスキルである。

 

具体的には、自分を表現し、他人の言葉に耳を傾ける方法を組み立て直す。反射的に反応するのではなく、自分が何を観察しているのか、どう感じているのか、何を必要としているのかを把握した上で、意識的な反応として言葉を発するようにする。


 

『NVCの4つのプロセス』  

第1の要素は【観察 Observation】状況を観察し、人が言ったことやしたことが私たちの人生の豊かさにどう影響しているかを、判断や評価を交えずに述べる

  • 観察は重要な要素だが、評価と観察を一緒にしてしまうと、こちらが伝えたいメッセージを相手が聞き取ってくれる可能性が減ってしまう。相手はむしろ批判として受け取り、反発する可能性が高い。


第2の要素は、
感情 Feeling相手の行動を観察したとき、自分がどう感じるか 

  • 自分がどう感じているのかを表現する。いつの時代も価値が置かれていたのは正しい考え方であり、感情は重要視されていなかったため、人間の感情を表現する語彙は少ない。自分の感情を表現する語彙力の向上に努めれば人間関係にプラス効果がある。


第3の要素は、
ニーズ Need自分が何を必要としているからそのような感情が生み出されているのかを明確にする 

  • 評価する、一方的に解釈する、勝手に想像するといった形で何かを表現すると、言われた側は批判されていると受け止めがちだ。それよりも、感じていることを自分が必要としていることと直接結び付けられれば、相手は思いやりを持って答えやすくなる。

第4の要素は、リクエスト Request相手に私たちの人生を豊かに、そして素晴らしくするための具体的な要求をする 

  • 自分の必要としていることが満たされていないとき、観察し、感じ、自分が必要としていることを自覚し、さらに具体的な要求をする。何を要求していないかではなく何を要求しているかを表明する。要求に応じなければ、非難されたり、罰せられたりすると相手に思われてしまうと、要求は強要となってしまう。

 

NVCとは、この4つの情報を、言葉、あるいは言葉以外の手段で非常に明確に表明すること。そしてまた、この4つの情報を他者から受け取ることで成り立つコミュニケーションである。


◆NVCの4つの要素はシンプルで分かりやすい感じを受けるが、一つ一つを考え始めると深い内容が語られていることに驚く。批判せずに周囲を観察できているか。これだけでも本当に難しいことなのだと痛感する。本書を読むのは非常に時間がかかった。それはこの最初の部分で考えさせられることが多かったからである。

◆ニーズは日本人にも馴染みのある言葉だがNVCのニーズとは生命を維持するためにどうしても必要なものと著者は説明している。具体的なものとしては、空気や水、食料、休息など。さらには、理解や支援、正直さ、意味など心理的なものもある。人はみな、国籍や宗教、性別、収入、教育などの違いを超えて基本的に同じことを必要としているが、ニーズを満たす手段は受けた教育や文化によって違うとのこと。ニーズもまた解釈の難しい要素である。NVC JapanのHPに掲載されているNVC入門講座の動画4本のうち、「その2/4」でニーズの解説をしている。

【動画】NVC入門講座 by マーシャル・ローゼンバーグ

ニーズは好みとは違っていること、相手の人をニーズの中に入れてはいけないことなどをキリンとジャッカルのパペットと使って語っている。この概念が理解できなければNVCの実践は困難になるだろうと思う。HPには資料も多数掲載されていて、ニーズを表現する言葉の一覧表もあるので興味を持ったかたは参考にしていただきたい。

◆本書にはエクサイズや事例がたくさん出てくる。繰り返し繰り返し4つの要素を解説しているが後半は共感の仕方や紛争解決の方法など具体的な活用例になっている。とにかく事例が豊富なので、実際に読んでいただきたいとしか言いようがないが、面白かったポイントをいくつか、まとめておきたいと思う。 

 

 

『思いやる気持ちを妨げるコミュニケーション』

私たちには、生まれつき人を思いやる気持ちが備わっているというのに、それをなかなか発揮できなくなっているのはなぜか。それは言葉が非常に重要な役割を担っているからである。あるタイプの言葉とコミュニケーション方法=「心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーション」は、人や自分に対して暴力的に働く一因となる。このようなコミュニケーションは自分自身も自分以外の人も傷つけてしまう。

 ▶心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーション 

    1. 道徳を振りかざして人を裁く
    2. 比較というかたちで人を評価する
    3. 自分の責任を回避しようとする
    4. 自分の願望を強要する

 

 

『共感を持って受け取る』

 ・共感とは、自分以外の人の経験を敬意とともに理解することだ。相手に対する先入観や決めつけを排除したとき初めて共感が生まれる。共感を求めている人にとって、励ましや改善策のアドバイスを欲しがっていると思われることはフラストレーションとなりかねない。共感をするために大切なのは、ただそこにいるということである。努力しているにもかかわらず、どうしても共感できない。もしくは共感する気になれない場合は、自分自身が他者からの共感を強く望んでいて、それが妨げになっているというサインである。

 

 

『思いやりを持って自分自身とつながる』

・NVCは、自分自身との関係作りにおいて最も真価を発揮する。自分自身に対して暴力的になっているとき、自分以外の人に心から思いやりを持つことは難しい。自分自身を批判したり非難したり、強要したりするコミュニケーションを繰り返し取り続ければ、自分が人間というよりも、モノに感じられてしまう。自分が必要としていることがどのように満たされているかといった視点で、自らを評価するとことを学んだ方が得られるものは、はるかに大きい。



『自分を許す』

・もしも自分の言動に対し、「ほら、またしくじった!」などと、とがめだてをする自分に気づいたら、すぐさまストップして自分に問いかけてみる。道徳をふりかざして厳しく叱責している奥には、どんなニーズがあり、何を満たそうと願っているのだろうか。

・悔やむプロセスをフォローするのは「許すプロセス」である。いま悔やんでいる自分の振舞いは、元々自分が必要としている何を満たすための振舞いだったのだろうか。人はどんなときでも自分が必要としていることを満たすために、そして価値観に忠実であろうとするために行動する。結果的に後悔したとしてもである。

  


『怒りを十分に表現する』

・NVCへの理解を深めるための絶好のきっかけとなるのが、怒りという感情である。怒りが生まれるのは相手を責める選択肢を選んだときだ。怒りを無視したり、押し込んだり飲み込んだりすることではなく、それよりも怒りの核心を心の底から十分に表現することが必要だ。

・怒りを十分に表現する第1ステップは私たちの怒りの責任から相手を解放することである。「彼、彼女、彼らが、ああいうことをしたから、私は怒ったのだ」という考えを手放すこと。人の言動は私たちの感情を刺激することはあっても、感情の原因とはならない。怒りが湧く度に相手の落ち度を探す。私たちは人に対して、間違っている、あるいは罰に値すると裁定を下し、相手を非難する。これが怒りの理由であると考えられる。

・義憤に駆られることもあるのではないかという疑問もでてくるだろう。しかし、罪を犯した人はどんな人間なのかといった意見に賛成したり反対したりする代わりに、自分たちが何を必要としているのかに注意を向けることで人生により貢献できる。自分が必要としていることを満たすにはエネルギーが必要だ。怒りは私たちのエネルギーを「人を罰すること」に向けてしまう。そのため、自分が必要としていることは満たされないままとなる。大切なことは、義憤に駆られるのではなく、自分自身、あるいは相手が必要としていることと共感を持ってつながることである。

 


『紛争を解決する』

・NVCを活用して紛争解決を行う場合、どんなケースであってもこれまで述べてきた原則通りに進める。最も重要なのは、当事者同士が人としてのつながりを築くこと。また、目指すゴールは自分の意向に沿って相手が動く状態ではないことを当事者双方があらかじめ理解しておく必要がある。その理解があれば、話し合いが実現できる。多くのプロの調停者の調停方法と、NVCを活用する場合とでは大きく異なる。多くの調停者は、紛争の当事者同士の関係を築こうとするより、争点を把握し、そこに焦点を当てて調停を進める。人と人との関係をより質の高いものにしていくことには、全く目を向けようとしない。

 


『力を防御的に使う』

・状況によっては対話の機会が生まれないこともある。そうなると、人命あるいは個人の権利を守るために力の行使が必要になるかもしれない。「力の防御的行使」は被害あるいは不正を防ぐことが目的だが、「力の懲罰的行使」は悪事と思われる行為を働いた個人に苦痛を与えることが目的である。

・懲罰的な力の行使は敵意を招きやすい。懲罰を与えられた側の善意と自尊心は損なわれ、行動の本質的な価値よりも結果のみを考えるようになる。非難や懲罰は、私たちが相手のなかに引き起こしたいと願っている動機の芽を摘み取ってしまう。力を防御的に使う場合は、相手に対して、あるいは相手の振舞いに対して評価を下してはいけない。

 


『感謝を表現する』

・賞賛と賛辞の言葉が、よりよく生きることを遠ざけているなどというと多くの人は驚くだろう。しかし賛辞は話し手が判定を下す者の座に収まっていることに注目すべきである。相手への評価は肯定的なものでも否定的なものでも、心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーションである。企業で研修を行うと称賛と賛辞は効き目があるという考えの管理職に出会う。賛辞により受け手がよく働くようになったとしても、それは長続きしない。操作してやろうという意図で褒め言葉が使われているのを察したとたんに生産性は落ちる。

・感謝の言葉を優雅に受け止められる人はめったにいない。自分はそれに値するのだろうかなどと考えてしまうからだ。人と人は互いの人生の質を高めることに貢献できているという現実を、喜びとともに受け取ることが大切である。私たちは感謝の言葉を受け取ると落ち着かない気分になるくせに、大抵の人は純粋に認められて感謝されることを熱望する。何とも矛盾した存在なのである。



◆どんなに頑張っても相手側にコミュニケーションをとる意志がない場合や、自分が相手に共感できない場合のことなども書かれている。この類の本で、ここまで書くのは珍しいのではないだろうか。とくに「力を防御的に使う」の章は共感できる点が多かった。しかし相手の言動を評価せずに介入するのは難しいことだと思う。これまでNVCの本を2冊読んできた。しかしまだまだ十分に理解できてはいない。引き続き勉強していくつもりだが、とりあえずは一旦読了とする。