2024/01/28

スピリットベアにふれた島


ベン・マイケルセン(著)

アメリカ合衆国の児童文学作家。南米、ボリビアで生まれ育つ。米国西北部、モンタナ州ボーズマン在住。研究のために捕獲され、殺されそうになったアメリカクロクマを保護し20年前からいっしょにくらす。徹底した取材にもとづく作品には定評があり、8作品で30近い受賞をするなど、各方面から高い評価を得ている。




・主人公のコールは同級生のピーターに重傷を負わせてしまう。15歳にして何度も警察のお世話になっているコールは刑務所に入る可能性もある。福祉・医療関係者や警察官など手を差しのべる人々は多い。しかし少年から見れば、それらの人々は上辺だけの思いやりを見せる嫌な大人でしかない。コールの嘘と凶暴性は増すばかりであった。


・本書の登場人物は少ない。コールとピーター、お互いの両親と弁護士。更生の手助けをする老人エドウィン、保護観察官のガーヴィー。このガーヴィーが本書で重要な役割を果たすことになる。まずガーヴィーはコールを刑務所に行くことなく更生させるため「サークル・ジャスティス」へと導く。



『サークル・ジャスティス

これは通常の裁判とは異なり、被害者と加害者、双方の家族、地域住民などが参加して文字通り輪(サークル)になって座り、一人ずつ発言していく。処罰を決めるものではなく、あくまでも双方の関係性を修復する修復的司法と言われている手法である。



・ガーヴィーは、アラスカの無人島でコールが一人きりで一年間生活しながら更生する案をサークル・ジャスティスに提出し承認を受ける。物語の前半「第一部」でのコールは凶暴で誰のことも信じず、島の小屋を燃やして逃げ出そうとする。しかしどんなにあがいても少年の力では島を脱出できない。親切な人間さえも疎ましく思い悪態をついてきたコールだが島で本物の孤独を知るのである。



『スピリットベア

本書のタイトルにも入っているスピリットベアは、本来は黒い毛のアメリカクロクマの亜種で、 アラスカ先住民が精霊の熊と呼んでいる白い毛のクマである。

 

・この白いクマにコールは襲われて瀕死の重傷を負う。孤独とケガ、嵐と寒さと飢え、極限状態でコールは「生きたい」と強く願う。老人エドウィンによって救出されたコールは再びガーヴィーやサークル・ジャスティスのメンバーと一緒に今後のことを考える。


・生まれ変わったコールを人々は簡単には受け入れてくれない。スピリットベアに襲われたことも嘘と受け取られてしまい事態は悪化する。本来のスピリットベアの生息地はコールの行った島からは遠く離れていること、そもそも亜種であって稀なクマであること、コールの話はいつも嘘であることなどが原因となった。


・ガーヴィーとエドウィンは諦めることなく人々を説得しコールは再び島へ。第二部は島でのコールの更生の道、怒りとの向き合い方やピーターとの関係修復が中心に描かれる。前半は暴力、嘘、島での悲惨な出来事が続く。ザワザワ感が続き途中で読むのがしんどくなるが結末は爽やかである。諦めずに最後まで読んでよかったと思える作品である。



◆ここまではストーリーを追って本書の概要を書いてきたが、第二部で描かれるコールの日常生活に関しては本書を読んでいただきたいとしか言いようがない。この後はコールの心境の変化について、心に残ったフレーズを4つピックアップして書いていきたいと思う。



①人生はすべてホットドッグだ  

コールは空腹に耐えられなくなって急いでソーセージを焼いてパンに挟んで食べた。そのあとガーヴィーは丁寧にソーセージを焼いて味付けし、エドウィンとコールと自分用に3つに切って分かちあった。そのときにガーヴィーがコールに言った言葉である。「おまえのホットドッグはただの食べ物だった。なぜならおまえが、そうであることを選んだからだ。人生はすべてホットドッグだ。自分の人生を自分の望むようなものにしろ」

◆丁寧に時間をかけて日々の暮らしを営むこと。分かち合うこと。日々を祝いの日にすること。少々乱暴ではあるがガーヴィーらしさ全開で人生指南をしているシーンが何ともいえない余韻となって残っている。



②人は死ぬまで、怒りをを捨てるために枝を折りつづける

枝はエドウィンがコールに手渡したものである。「この枝の右端はおまえの幸せ、左端はおまえの怒りだ。左端を折って怒りを捨てろ」コールは左端を折り取る。しかし、エドウィンは「まだ左端が残っている」と言う。枝を折るコール。まだ残っていると言い続けるエドウィン。どんなことをしても枝には左端が存在するのである。「人は死ぬまで、怒りを捨てるために枝を折り続ける。だが、怒りは必ず残り、捨てきれなかったと感じる」

◆私はこのシーンが一番好き。だれもが心に怒りを抱えているが幸せの種も持っているということ。またそのあとにエドウィンは幸せも怒りも習慣だと言っている。習慣だから変えられるのか、習慣だからなかなか変えられないのか。どんなことに目を向けて日々の生活をおくるのか。自分で選べとコールに語りかけているエドウィンは暖かい。



③その時は、だれかほかの人間を助けてやれ

コールは被害者のピーターに償いたいと思っている。ピーターは重症を負わされてから、ずっと引きこもって自殺未遂を繰り返している。コールは赦すことを学んだ。腹をたてれば感情を支配する力を他人に与えてしまい操られるのだ。しかしコールは赦すだけでは何かがたりないと感じている。どうにかしてピーターを助けたいが、ピーターはその気持ちを受け付けない。このまま助けられなかったらどうする?というコールの問いエドウィンは答える「その時は、だれかほかの人間を助けてやれ」

ガーヴィーとエドウィンも過去に罪を犯しているのであった。 罪の償い方、更生の仕方も様々あると思うが、その一つが人を助けることである。被害者本人と接触が叶わない場合もある。そのときは別の形でだれかの役に立つことが癒しと償いになると2人とも語っている。被害者と関係を再構築できない状況は実際には多いのではないかと思う。小説のように上手くはいかないだろう。しかし大きな事件ではなく、日常の人間関係で考えるとどうか。修復的な関係作りというのはできるのではないだろうか。だれかの役に立つという考え方も同じである。コールは自分は大きな輪(サークル)の一部であると最後のシーンで語っている。どの部分も始まりででもあり終わりでもある。そしてすべてはひとつだ。



④見えない存在になるには、心を無にしなければならない
もう一度スピリットベアに会いたいとコールは思い続けるが、遠くに姿を見ることはあっても近づいてこない。エドウィンの助言やコールの島での体験をもとに考えると、スピリットベアと対面するためには見えない存在にならなければいけない。苦悩の中でコールは、「見えない存在になるには、心を無にしなければならない。それが秘訣だ」と理解する。見えない存在になるとは姿を消すことではなく意識を消すことである。
◆動物は本能と感覚の世界で生きている。人間は心の平穏や無の境地をなかなか持てない。以前のコールは周囲に悪意をぶつけたり、危害を加えようとしていた。心を無にするとは、同じ風景に溶け込むこと、呼吸を整えること、など様々な表現を駆使している。これはストーリーの中のニュアンスでしか理解できないのかもしれない。伝えることは本当に難しい。



◆修復的司法とはどういうことなのだろうか。裁判で裁かれるということは有罪か無罪か白黒つけることである。日本の社会では被害者救済という観点がかなり抜け落ちている感じで進められるようだ。本書に出てくる サークル・ジャスティスでは、最初は参加者は輪になって座っている→キーパー(司会)の声に従って立ちあがり両隣の人と手をつなぐ→着席しキーパー(司会)が一本の羽根を参加者の一人に渡す→羽根を持っている人だけが発言する→次の人に羽根を渡す。求められるのは誠実さと敬意だけ。被害者の立場、加害者の立場、それぞれに考えるのではなく、最終的にはどのようにして壊れた人間関係を修復しながら日々を幸せに生きるか。関係性を修復するということ。コールの島での生活は今すぐ結論を出すようなものではなく、大人たちに見守られながら歳月をかけて更生していく。非常に暖かく、そして厳しく、考えさせられる作品という読後感である。


◆つい最近私は、帚木 蓬生さんの「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」という本を読んだが、その本の中に日薬と目薬という言葉がでてきた。「日薬」とは、すぐには解決しないこと。待つうちに事態は自然と何とかなるようになるという考え方。「目薬」とは、人は見守ってくれる目があると苦しみにも耐えられるということ。ネガティブ・ケイパビリティは日本語では消極的能力」と訳されている。性急にアドバイスしたり答えを出させようとしない待つ能力ということになるのだろう。ガーヴィーとエドウィンの2人にはネガティブ・ケイパビリティに通じるものがあるのではないだろうか。



◆本書は中学校の課題図書になっているが、深く考えれば答えの出ない問題も多く含まれている。中学生が読むには難しいのではないかと思う。その反面、コールやピーターの怒りを一番共有できるのは同じ年齢の少年少女たちなのかもしれないという感じもする。完全にわからないなりにも何か感じるものがあれば、成長とともに何かを抱え込んでしまったときなどに、繰り返し手にとる本となるのかもしれない。いや、そうなってほしいと思う。











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