2023/06/09

【小説】サンドリーヌ裁判  

 


トマス・H・クック(著)

体裁としてはリーガル・ミステリだが本書は主人公サムの重厚な人間ドラマである。サムと妻サンドリーヌはともに大学教授。文学を愛し浮世離れした生活を送っていた。しかし田舎町での二人の立ち位置は微妙だった。ALSを発症したサンドリーヌはこの先10年にも及ぶと思われる闘病生活を嘆き、自らこの世を去った。世間知らずのサムはまさか自分が殺人の嫌疑をかけられるとは思いもしなかった。




状況証拠はサムに不利なものばかり。プライバシーを暴くだけの裁判は検事の狂気じみた正義感で進んでいく。人生がひび割れてしまったサムが妻の最後の思いを受け留めるまでの葛藤がテーマとなっている。

登場人物は非常に少ない。同じ大学で親密な関係にあった数人と刑事、検視官が証人として登場するが、サムの回想が裁判シーンを凌駕する勢いで溢れ出していく。

サムは大学卒業後に教職に就いたがいつか偉大な小説を書くという夢を持っていた。田舎育ちで文無しでハンサムとはいえない不器用な青年だったが、心を込めて本を読み、心から教えることのできる熱心な教師であった。サンドリーヌは両親の仕事の関係で海外暮らしが長かったこともあり語学が堪能で才能あふれる美人だが、何よりも人を惹きつけるのはその優しさと深い愛情である。出世を望まず、いつか地球のどこか遠い片隅に学校を作るのが夢だった。できの悪い学生にも必要とされる本物の教師がサンドリーヌの理想像だった。

何度も繰り返し出てくるのは、同棲時代の旅行先フランスの田舎町アルビでの思い出。セシル大聖堂とタルヌ川を黄金色に染める夕陽。そしてサンドリーヌからのプロポーズ。サムは考え続ける。サンドリーヌほどの才気あふれる美女にプロポーズの言葉を言わせたのは何だったのだろう。何を自分は持っていたのだろう。そして何が二人の関係にひび割れを起こさせたのだろうか。

裁判が進むにつれ、状況証拠は積み重なっていった。サンドリーヌがサムを陥れるために仕組んだとしか思えない数々の出来事。謎に満ちた遺書。町の人々の冷たい視線。警察官の悪意に満ちた尋問。すべてが破滅に向かっていくような雰囲気だったが決定的な証拠など出てくるはずがないのである。

人間の思い込みの怖さ。つい最近まで尊敬されていた大学教授でも状況証拠だけで人は離れていく。本書のポイントの1つはこの集団心理の大きな動きであり滑稽なまでに正義感の強い検事の存在である。

もう1つのポイントはサンドリーヌの残したメッセージの数々をサムが読み解いて再生していく過程である。

サンドリーヌは自分の病気をサムに打ち明けるのか怖かった。サムは自分と一緒に悲しんだり怖がったりしてくれないだろうという思いに取り憑かれていたからである。サムとの会話のキッカケを掴むために読んでいた本の一節を語ったり、聴いていた曲の名前を言ったりしたがサムには届かなかった。今度は自分の殻に閉じこもりサムを無視するサンドリーヌ。怒りを爆発させるサンドリーヌ。

サムは大学教授として長い年月を過ごすうちに頑なで理屈っぽくなり、心に厚い硬い傷跡を持つようになっていた。サンドリーヌの残したメッセージの本当の意味に気づいたのは裁判の終盤になってからであった。

「記憶というのは、ありとあらゆる隙間から芽を出す花になんと似ていることか」とつぶやきながら現実の裁判から思い出の中へとサムは戻っていく。

第三者から見た人生とはキャリア、家族構成、生い立ち、普段の言動などが積み重なったものなのだろう。自分にとって自分の人生とは記憶の積み重ねである。

遠い過去に愛を感じたときの優しさを…いま再びあなたは取り戻せますか?と著者は問いかけてくるが結末が決して暗くないことが救いである。読後感はなぜか爽やかだった。


(まだ一年の半分が残っているが、何となく今年のベスト本になるような気がしている)










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