追熟読書会: 小説
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 【 マディソン郡の橋 】 

ロバート・ジェームズ・ウォラー著









「グラッサー博士の選択理論」の第6章でフランチェスカとロバートの2人が登場した。4日間の出来事と別れ、フランチェスカの落ち込みについてグラッサー博士は解説し仮想カウンセリングを行っている。続く第7章でも2人は登場。この2人は本書「マディソン郡の橋」をモチーフにしている。どこまでが小説の内容なのか、どの部分がグラッサー博士の創造なのか。それがわからないと難解な文章をさらに難解にしていると感じたので読んでみた。

  • 主人公のフランチェスカは夫と2人の子どもと一緒に田舎の農場で暮らしている。元は高校教師、文学を愛する繊細な女性である。イタリア国籍だが第二次大戦直後に軍関係でイタリアに来ていたリチャードと結婚してアメリカに移住した。田舎の人々はフランチェスカが愛する文化や芸術を理解できなかった。
  • 夫のリチャードは優しいが人の心に鈍感なところがあって時としてその朴訥さがフランチェスカを傷つけた。2人はそれほど親密ではないがケンカするわけでもない。リチャードはフランチェスカを愛してはいるが農場で働くことを最優先させている。人間は深く考え込まなくても働いて生きていけるのである。
  • 1965年8月、フランチェスカはロバートに出会った。ロバートは写真家でカメラをかかえて旅をしていた。フランチェスカはロバートを好きになり4日間一緒に過ごしたが、ロバートは帰っていった。フランチェスカには子どもがいる。家庭を捨てて一緒に行くことはできなかった。
  • なぜ、2人はこれほど惹かれ合ったのか。ロバートと出会う前から田舎の単調な暮らしに飽きていたフランチェスカだった。2人は芸術、文学、音楽の話ができて波長が合った。なかなかこういうしっくりと感覚の合う相手と巡り合うのは難しい。私もかなりの田舎で育ったのでフランチェスカの気持ちは理解できる。小説を読むというだけで嘲りの対象になることもあるのだろう。逞しく日々を生きる人々もいれば繊細な人間もいることを理解しない風潮があるのだと思う。とにかくフランチェスカが諦めていた文化的会話がロバートとの間には存在したのである。ロバートも孤独だった。フランチェスカを連れて帰りたかったが無理なこともわかっていた。
  • 1979年に夫リチャードが亡くなり、1982年にロバートの弁護士から手紙が届く。ロバートは遺品と手紙をフランチェスカに届けるよう弁護士に託していた。2人は1965年8月のあの4日間を生涯忘れることはなかった。


  • 小説そのものの感想としては、綺麗で悲しくて輝いていて、何だか胸が一杯になった。フランチェスカは強い女性でロバートは暖かさと強さを併せ持つ成熟した人間だ。小説の中ではフランチェスカはカウンセリングを必要としてはいなかった。
  • 逆にというか、皮肉なことにフランチェスカはロバートとの出会いがあったからこそ農場にとどまることができたのである。フランチェスカは自分で別れを決断した。ロバートと一緒に行っても罪悪感から自分は幸せにはなれないと感じていたからだ。イタリアから移住してきたときは何となく時代に流された感があった。憧れのアメリカに住むという甘い考えもあった。その甘さが様々な消化不良を生んでいたが、ロバートとの別れは自分で選択したものであり覚悟があった。
  • グラッサー博士は仮想カウンセリングでフランチェスカに質問している。「私に会いにくる選択をした理由は何でしたか」フランチェスカは答えた「私が来たのは、誰かに話さずにはいられなかったからです」 実際に小説を読んでみるとこの言葉は重いものだとわかる。夫リチャードは悪い人間ではない。生活の安定と平和を与えてくれる。しかし話は通じない。次第に話さえもしなくなっていたフランチェスカの空虚さを何かで埋める必要がある。
  • ほとんどの場合、親子も兄弟も夫婦も多くの違いがありながら一緒に暮らしている。幸せになるためには解決のサークルが示すように話し合いで妥協点を見つけ尊敬を忘れないことが大切である。夫リチャードにはそこの部分が欠けていた。しかし著者の創造力は素晴らしい。リチャードの最期の言葉は、フランチェスカに夢を与えられる存在ではなかったことへの心残りであった。リチャードも気づいていたのである。またこれも涙を誘う場面である。
  • 小説の中でフランチェスカは、2人の思い出の品を年に1度だけ取り出して偲んでいた。日記を書くことでいつか子どもたちにも自分の気持ちを知ってもらいたいと思った。これが落ち込みから癒やしへとフランチェスカを変化させたのである。フランチェスカの死後に手紙と日記を読む息子と娘は、母と比べて自分たちの人生が投げやりで幼稚であることに気づく。こんなに最後まで涙を誘う展開にしなくてもいいのにと思ってしまった。
  • この作品は映画化もされているが、小説ならではの心理描写がなければ単なる恋愛モノ、それも中年の男女の恋愛物語である。凝った構成で読ませる小説が近年は増えているが、本書は優れた心理描写と綺麗な言葉、綺麗な文章で気持ちよく読める作品だった。良い作品との出会いに感謝。


 

【愛の重さ】 

アガサ・クリスティ著


ミステリーの女王、アガサ・クリスティが別名義で書いた愛の小説シリーズ6作品の中の1つ。

1956年の作品。




「どうして人間は、他の人にとって何が一番いいことか、当人より自分の方がよく知っているような気になるのでしょう?」これは主人公ローラが妹を愛し過ぎることを心配した友人の放った言葉である。

クリスティはトリックを組み立てることが非常に上手いが、それ以上に人物描写が上手い作家さんである。どう頑張っても好きになれない被害者と好人物の加害者という設定も多い。読者は加害者に感情移入していくが頭脳明晰で皮肉屋の探偵は容赦しない。一度罪を犯して逃げ切った人間はまた同じことをする。いやエスカレートしていくこともあるからだ。どちらにしても人間の心の明暗を描くのが上手い。運命の悪戯やちょっとした無理が原因で道から外れてしまう心理、変わりたいと思っても自分で自分がどうにもならないジレンマ等々。

クリスティは自分で生み出したポアロに愛想が尽きて何度もシリーズを終わらせようとしていた。本当に書きたかった小説は本書のような文学性の高い作品だったのではないかと思う。

さて、本書の主人公ローラの話に戻る。ローラは大人しくて賢い子どもだった。あまりにも手がかからない子どもだったので親にかまってもらえなかった。2歳年上の兄が病気で亡くなると両親を独り占めできると考えたがすぐに妹シャーリーが生まれる。

シャーリーへの嫉妬から「妹などいなくなればいい」と神様に頼むほど思い詰めていた。ところが家が火事になって取り残されたシャーリーを見た途端にローラの愛情は爆発し、火の中に飛び込んで救助する。その後、両親が事故死してからは異常なまでに愛情が深くなっていったのである。あまりにも妹を大切に思う自分が怖くなり何とか距離をおこうとするが上手くいかない。

シャーリーの結婚が不幸なものだと思い込んでしまってからはコントロールができなくなっていく。シャーリーの夫ヘンリーはお金と女性にだらしがなく仕事は何をやっても長続きしない。それでいながら不思議と周囲の人気を集める魅力を持っている。現実世界でも時々耳にする話ではあるがクリスティがこういう人物を書くと忽ち魅力が溢れ出す。実はシャーリーもヘンリーとの生活に疲れながらも幸せだったのである。

人生の転換期は突然にやってくる。ヘンリーはスポーツ中のケガがもとで障害を負ってしまう。苛立ちをシャーリーにぶつけるヘンリーだが、何とか立ち直ろうとしていたのも事実。反省し後悔の涙を流すが自分で自分がコントロールできないヘンリー。ローラはローラで自分の愛情が妹の人生を狂わせる可能性に気づくがこちらもコントロール不能になっていく。そして悲劇は起きる。

本書の魅力の一つはローラを支える2人の人物の存在である。亡父の友人だったボールドックは偏屈な学者だが客観的に人間を見る才能を持っていた。自ら心配事を探して歩くようなローラにたびたび忠告する内容は深い洞察に基づいている。

もう1人はローラとシャーリーに影響力を持つルウェリンである。神職ではなく演説者であり伝道者である特殊な立ち位置のルウェリン。その会話の一つひとつが示唆に富んでいる。急に終盤になって登場して雰囲気を一変させるルウェリンに違和感を感じるというレビューをネット上で見かける。しかし、ヘルマン・ヘッセの「シッダールダ」を彷彿とさせるこの人物に私は好感を持っている。

ヘンリーの死後に再婚したシャーリーだが幸せを感じることができず苦しみ続ける。ローラとシャーリーの思いを結び付けローラを支えたルウェリン。結末が明るい将来に向かっていることが救いである。

愛とは与えることも、与えられることも時として難しい。幸せの価値は人それぞれ違うが、どんな人も幸せを願うことは許されている。長いあいだ妹を支えることしか考えなかったローラが、愛され支えられる立場になったことで、愛の重さと期待に応えることの重さを知ったのである。

ローラの愛情は怖い側面があるが、シャーリーのヘンリーに対する愛情も疑問を感じるほど深い。まだまだ心理学が一般には浸透していなかった時代に書かれた作品が、70年近い時を経て読者を感動させているのだからクリスティは凄い。

 


【 サンドリーヌ裁判 】  

トマス・H・クック(著)


体裁としてはリーガル・ミステリだが本書は主人公サムの重厚な人間ドラマである。サムと妻サンドリーヌはともに大学教授。文学を愛し浮世離れした生活を送っていた。しかし田舎町での二人の立ち位置は微妙だった。ALSを発症したサンドリーヌはこの先10年にも及ぶと思われる闘病生活を嘆き、自らこの世を去った。世間知らずのサムはまさか自分が殺人の嫌疑をかけられるとは思いもしなかった。




状況証拠はサムに不利なものばかり。プライバシーを暴くだけの裁判は検事の狂気じみた正義感で進んでいく。人生がひび割れてしまったサムが妻の最後の思いを受け留めるまでの葛藤がテーマとなっている。

登場人物は非常に少ない。同じ大学で親密な関係にあった数人と刑事、検視官が証人として登場するが、サムの回想が裁判シーンを凌駕する勢いで溢れ出していく。

サムは大学卒業後に教職に就いたがいつか偉大な小説を書くという夢を持っていた。田舎育ちで文無しでハンサムとはいえない不器用な青年だったが、心を込めて本を読み、心から教えることのできる熱心な教師であった。サンドリーヌは両親の仕事の関係で海外暮らしが長かったこともあり語学が堪能で才能あふれる美人だが、何よりも人を惹きつけるのはその優しさと深い愛情である。出世を望まず、いつか地球のどこか遠い片隅に学校を作るのが夢だった。できの悪い学生にも必要とされる本物の教師がサンドリーヌの理想像だった。

何度も繰り返し出てくるのは、同棲時代の旅行先フランスの田舎町アルビでの思い出。セシル大聖堂とタルヌ川を黄金色に染める夕陽。そしてサンドリーヌからのプロポーズ。サムは考え続ける。サンドリーヌほどの才気あふれる美女にプロポーズの言葉を言わせたのは何だったのだろう。何を自分は持っていたのだろう。そして何が二人の関係にひび割れを起こさせたのだろうか。

裁判が進むにつれ、状況証拠は積み重なっていった。サンドリーヌがサムを陥れるために仕組んだとしか思えない数々の出来事。謎に満ちた遺書。町の人々の冷たい視線。警察官の悪意に満ちた尋問。すべてが破滅に向かっていくような雰囲気だったが決定的な証拠など出てくるはずがないのである。

人間の思い込みの怖さ。つい最近まで尊敬されていた大学教授でも状況証拠だけで人は離れていく。本書のポイントの1つはこの集団心理の大きな動きであり滑稽なまでに正義感の強い検事の存在である。

もう1つのポイントはサンドリーヌの残したメッセージの数々をサムが読み解いて再生していく過程である。

サンドリーヌは自分の病気をサムに打ち明けるのか怖かった。サムは自分と一緒に悲しんだり怖がったりしてくれないだろうという思いに取り憑かれていたからである。サムとの会話のキッカケを掴むために読んでいた本の一節を語ったり、聴いていた曲の名前を言ったりしたがサムには届かなかった。今度は自分の殻に閉じこもりサムを無視するサンドリーヌ。怒りを爆発させるサンドリーヌ。

サムは大学教授として長い年月を過ごすうちに頑なで理屈っぽくなり、心に厚い硬い傷跡を持つようになっていた。サンドリーヌの残したメッセージの本当の意味に気づいたのは裁判の終盤になってからであった。

「記憶というのは、ありとあらゆる隙間から芽を出す花になんと似ていることか」とつぶやきながら現実の裁判から思い出の中へとサムは戻っていく。

第三者から見た人生とはキャリア、家族構成、生い立ち、普段の言動などが積み重なったものなのだろう。自分にとって自分の人生とは記憶の積み重ねである。

遠い過去に愛を感じたときの優しさを…いま再びあなたは取り戻せますか?と著者は問いかけてくるが結末が決して暗くないことが救いである。読後感はなぜか爽やかだった。


(まだ一年の半分が残っているが、何となく今年のベスト本になるような気がしている)










【手紙屋

喜多川泰(著)

手紙屋は希望者と手紙のやりとりをすることを仕事にしている。その手紙は全10通。手紙屋が今まで学んだことを惜しみなく伝授しながら夢を実現する手伝いをするのである。

2007年8月発売の就職活動編と同年12月発売の螢雪編と2冊あるのでどちらから先に読むか迷った。私は就職活動編から読んだがティーンエイジャ-なら螢雪編からがいいように思う。

それではまず、
「僕の就職活動を変えた十通の手紙」から

主人公の諒太は大学4年生だが就職活動に乗り遅れている。自分が何に向いているのか、何をしたいのかわからない。
そんな状態で受け取った手紙屋からの1通目の手紙。
働くという行為は「お金や安定」と「労働力や時間」をちょうどいいと思う量で交換している。この手紙は物々交換がテーマだった。今までお金があれば欲しい物が買えると諒太は単純に考えていたが、世界は自分の理解しているものとは違うと気づく。

この辺りの設定はかなり怪しい雰囲気はある。社会人経験を積んだ人なら警戒して手紙は書かないだろうと思うが、とにかく不思議な文通は始まった。そして手紙が届く度に世界観が変わっていったのである。次に学んだのは、頭の中に天秤を用意すること。片方に手に入れたいものを乗せ、もう片方には手に入れるために必要なものを乗せる。バランスを取るには努力が、練習が、勉強が必要になる。

文通を通して、多くの人から必要とされ続ける大切さも学んだ諒太は大企業へのこだわりが消えかけていた。しかしそのタイミングで内定をもらう。安心感を持ちながらも拍子抜けする諒太はさらに自分のしたいことは何か考え続け、ついに文通が終わるころには自分の生き方を見つけるのである。

ビジネス書のような難しい言葉は使わず感情的にもならず静かに進んでいく。よくある啓発書との違いはわかりやすさと、相手の成長を期待しながらも他人を変えることはできないと理解していること。人は多面的でありすべての人にあらゆる性格が備わっていると考えていることである。

背景の設定も面白い。書楽という書斎カフェとそこで働く和花の存在。前向きな生き方をする車椅子の義兄。そして手紙屋とは何者なのか(これは最後にネタバレがある)



続いて蛍雪篇 私の受験勉強を変えた十通の手紙」

書楽で働いていた和花が高校生2年生のときの話。やはり和花も手紙屋と文通していたのである。

父親とは衝突ばかり、勉強はやる気になれず成績は低迷していた。この辺りは共感を持つ人も多いのではないだろうか。私などは高校生のときの記憶は薄れてしまっているが父親との衝突はピークだったような気がする。


進学せず就職する道も考え始めた和花だが、そのタイミングで兄から手紙屋を紹介された。兄はバイク事故で車椅子生活になったが手紙屋のおかげで人生が変わったと言う。兄に届いた1通目の手紙を読ませてもらって涙する和花。そこから文通が始まったわけだが、驚いたことに和花への1通目の手紙には「しばらくの間、勉強するのをやめてほしい」と書いてあった。

勉強をしなければしないで落ち着かない和花だが2通目、3通目の手紙を受けとるうちに昨日とは違う自3分になるためにもう一度勉強しよう、大学に行こうと考え始める。そして、またまたいいタイミングで大きな変化が起きる。両親が与論島に移住してペンション経営をすることになったのである。和花はペンションの手伝いをするか一人残って大学に進学するか決断を迫られる。

文通が続くにつれて変化していく和花だが、何かに没頭しているときに感じる楽しさは「笑える」という意味の楽しさとは違うことに気づく。

誰かを幸せにするため・・・これも大事なことだが忙しくなると忘れてしまいがちなことでもある。

私は喜多川さんの作品は若者向けの人生指南書だと感じていたがネット上の書き込みを見ると若者よりも親世代、ある程度の年齢の人に刺さっているような感じがした。私も若いときに読んでいたら印象は今よりサラッとしていたのかもしれない。なぜなら簡単なことでも実践は難しいが、それでも諦めずに少しずつでも続けていたら何かしら結果がでることを今は知っているからである。

読んでいる途中で思い出したことを付記する。
三浦綾子さんの「続氷点」に出てくる言葉、
一人の人間を、いい加減に育てることほど、はた迷惑な話はないんだよ。自分一人くらいと思ってはいけない。その一人くらいと思っている自分にたくさんの人がかかわっている。ある一人がでたらめに生きると、その人間の一生に出会うすべての人が不快になったり、迷惑をこうむったりするのだ。そして不幸にもなるのだ。

子育て中に何度も思い出した言葉。自分勝手に子どもたちに感情をぶつけそうになったときに歯止めになってくれた。綾子さんの言葉には力強さが、喜多川さんの言葉には優しさがある。 

【 賢者の書】

 喜多川 泰 著

人生の指南書ともいえる喜多川さんの作品の中でも本書はデビュー作という特別な位置づけにあると思う。 

ある意味では若々しく理想的であり、ある意味では歩き続けて人生に疲れた人々への成熟したエールでもある。喜多川さんのことは何年も前から知っていたが実は最近まで未読だった。それは何故かというと、若者が読む本というバイアスがかかっていたからだ。しかし数ヶ月前に参加した心理学系セミナーで勧められて読んでみると非常に面白かったのである。


最初の語り手はアレックス。中学、高校に通う2人の子どもがいる。住宅ローンが残っているのでリストラされそうな会社で何とか耐え忍んでいる。社長交代で新社長に疎まれ若手に仕事を奪われていく悲しみが淡々と語られていく。妻は話好きで可愛い女性だが最近は愚痴ばかり。鬱屈したアレックスは一人になるため思春期を過ごした町の公園に向かう。


 

アレックスが公園で出会ったサイードという少年は賢者の教えを求めて旅をしている。最後の教えを授けてくれるのはアレックスだと信じているサイード。物語の語り手はこの少年に移っていく。

 

賢者は9人、教えも9つある。ネタバレになりすぎない程度で2つの教えについて感じたことを書いていくが、詳細はぜひ本書を実際に手にとって読んでいただきたい。

 まず1つ目は、自らが生きていく方向性は、何になるのか(職業)ではなく「どんな人間になるのか」が大切という話。これは第4の賢者の教え。将来どうなりたいか、と聞かれると職業を答える人が多いが、同じ職業のなかで「どんな人間になりたいか」のほうが大切。どんな人間になりたいかを追求するから自ずとやるべきことが見えてくる。賢者とはなろうとするものではなく自然と周囲が認めるから賢者と呼ばれるのである。

なかなかややこしい話だが、江戸時代の武道を例に説明しているので若者にも理解しやすいのではないかと感じた。身分制度のなかでは職業を選ぶことはできない。武道とは武士としてどう生きるかを追求する道なのである。すべての武士が立派な人物だったわけではないと考えると成功は人についてくるものであり職業ではないという理論がスッと入ってきた。

 

 

2つ目は第8の賢者の教え。言葉には2種類ある。1つは口から発せられる音としての言葉。もう1つは心の中の言葉である。圧倒的に強く影響を受けるのは自分自身の言葉。人生は言葉によって作られている。

 一番響いたのはこの第8の教えだった。私は常々、思考とは言葉だと思っている。言葉なくして考え事はできないからである。しかしやっかいなのは自分自身に語りかける心の中のひとり言はいつもポジティブとは限らない。実際の音としての言葉も情報も完全にシャットアウトすることは難しい。もし仮に外からの情報を完全にシャットアウトしても自分の声は聞こえ続けるのである。人が圧倒的に影響を受けるのは自分の言葉である。では、どんなふうに自分に語りかけると人生をいい方向に向けられるのか。ネガティブな言葉の反芻を止めるにはどうしたらいいのか。多くの人が様々な方法を指南している。マインドフルネスなどもこの教えに近いものなのではないか。

 

実際この類の本は多く出版されている。内容が似通っているのも事実だと思う。読んでも実行しなければ意味がないという人は多い。さらに言うと、そんなことはわかっているができないから困っているという人々も多い。

 

なぜ簡単なこと、ありきたりな内容などと言いながら実行できないのか。それは自分の心の中のひとり言に関わっているのかもしれない。ここまで考えてみて本書を読むことの意味が見えてきたように感じた。

とにかくやってみよう。

ちいさな「ありがとう」から。そして本をたくさん読んで語彙数や思考回路を増やしていこうと思う。

【ジュリアン・ウェルズの葬られた秘密

トマス・H. クック 

 

犯罪・虐殺を題材に執筆を続けてきた作家のジュリアンが亡くなった。その謎をつきとめるため親友のフィリップがヨーロッパ、ロシア、アルゼンチンを旅して真相に辿り着く物語である。前半は語り手のフィリップの嘆きが陰鬱で読むのがしんどかった。

 


フィリップとジュリアンの二人は親友というよりも双子のような関係。ジュリアンの父はジュリアンが15歳のときに他界している。その後ジュリアンはフィリップの父を慕い自分の将来の夢を相談するなど親密な関係を続けていた。大学の卒業旅行でアルゼンチンに行った二人はガイドの女性と知り合う。その女性が行方不明になったことがジュリアンの人格をも変えてしまったのである。

 




ジュリアンに何があったのか。何としても知りたいフィリップ。国務省勤務だったフィリップの父に勧められて政治的に不安定だったアルゼンチンを旅した二人。父が重要な鍵を握っているようなザワザワ感が漂うが、物語は二人の若かりしころの思い出に浸っていく。

 

アルゼンチンの政治の問題は何も知らなかったので、キューバ、アメリカ、ロシアなども絡んでこれほどのスパイ合戦が繰り広げられていたことにまず驚いた。

二重スパイ、三重スパイとなってくるとストーリーについていくのが難しくなるが、とにかく二人が信用していた純真無垢で賢い女性ガイドがスパイかもしれない状況になっていくのであった。

 

本書の構成はジュリアンが書いたノンフィクション作品をなぞるようにできている。フィリップも亡きジュリアンの取材先を追いかけるように旅をする。

 

そもそも何故こんな暗い話を長々と書くのかと読んでいて疑問に思う瞬間もあったが、著者が書きたいことは徐々に明らかになっていく。

 

他の作品にも共通していることだが、善とは何かをとにかく追い求めている。少々ネタバレになるってしまうが、本書では善は悪のきわめて巧妙な変装であると語っている。

 

ジュリアンは世界を変えるような立派な正しいことをしたい。一人の人間の力で世界を変えることは可能なのか思い悩む少年だった。フィリップの父のように国務省に入っても正しいことは出来ないのではないか。あまりにも真っ直ぐなジュリアンが悪気もなくついた嘘が大惨事に繋がってしまった。人はだれでも何かしら役を演じて生きているわけだが、政治が絡むとそれは危険な領域に入ってしまう。

 

善意の人々が時としてトラブルメーカーになってしまうことは私達の身近でも起き得ることである。大きな後悔を抱えながらも、それでも生きていく人と力尽きてしまう人がいる。その違いは何なのか。正しさとは何か。そして罪悪感から真実を語ることは救いとなるのか。

 

「緋色の記憶」と本書と、二冊を読了して感じたことは真実を告白することは必ずしも救いにならないということである。自分の罪を告白することは自分を救う手段であっても誰かを傷つけるのであれば語らないこともまた善であるのかもしれない。だが、本書はそこでは終わらない。「この世で最も残酷な行為は欺瞞である」とたたみかけてくるのだから何ともやりきれない気持ちになる。

 

第一部の『クエンカの拷問』は死体なき殺人事件であり冤罪事件でもある。拷問で自白した二人の容疑者は決して善人とは言えないが無実であった。なによりも、いじめの被害者であり弱者と思われていた被害者が生きていたこと、復讐のため自分自身を死んだことにした、というのは本当に闇が深い。

 

このように社会的・政治的な闇を描いているためにミステリとしてのインパクトが弱いような印象を持った。ミステリよりもノワール、いやノワールよりも哲学的な小説と言っていいのかもしれない。

決して明るい小説ではないうえにミステリ要素も少ない。しかし非常に読み応えのある作品だった。


 ジーキル博士とハイド氏

スティーブンスン ()

 

 あまりにも有名すぎて、かえって読まれることの少ない名作。と巻末の解説にあるとおり本書をじっくり読む人は少ないのかもしれない。映画や舞台で脚色されたハイドの印象が独り歩きしている感がある。



 


二重人格がテーマの小説と思われがちだが、私は少し違っているように感じている。人間とは一つの人格のなかに矛盾した二面性(この小説が書かれた時代にはそういう表現しかなかったと思われる)を持つ生き物なのである。善悪の混合体であり一つの人格の中に善悪がある。不完全な存在であるからこそバランスが取れているのというのが著者の主張ではないだろうか。

 

誰もが持つこの善悪という二面性を分離してみようとジーキル博士は考えて善悪分離の薬を発明した。単調な研究ばかりの毎日から解放された邪な心は喜びを見い出し、正しい方の心も恥や罪悪感に悩まされなくなるのだから良いことずくめのように思えた。確かにハイド(隠れる者という意味)が完全なる悪として存在できるようになった点では成功だ。しかもハイドになっているときは頭脳が明晰で精神の張りもある。罪悪感など持たずに悪行三昧なのである。

 

しかし、ジーキル博士は完全な善人ではなかった。怖いのは善悪分離薬を使ううちにバランスが崩れて善悪の混合体であるジーキル博士は悪に取り込まれていくことである。次第に薬は効かなくなりジーキルに戻るのが難しくなる。怖くなったジーキル博士は善人の道をえらぶが抑圧された悪が暴れ出して重大事件を起こすときがくる。

 

面白いのは、悪は悪だけで存在しうるが、善は善だけでは存在できないということである。もう一つ興味深い点は現代でいうワーカホリック状態が続くと悪への憧れが強まることである。ハイドになっている時は人相まで変わってしまう。ハイドが小柄なのは悪が今まで抑圧されていて発育不全だからだという説明まであって、ホラーなのかファンタジーなのか不思議な作風である。しかし緩いエンタメ性の中に非常に大事なことが示唆されているから面白い。趣味や自分の楽しみを持つこと、時には要領よく怠けること。ジーキル博士は勤勉で向上心が強いが研究生活は無味乾燥でつまらないと感じている。研究で社会貢献することよりも自分が尊敬される存在でいることに努力は注がれている。ストレス解消として悪を求めるという考えは身近に恐怖が迫ってくるように感じる。

 

10章からなる本書の最終章は自ら破滅の道を選んだジーキル博士の告白書である。ここに至るまでの経緯と善悪分離薬を作るに至った心理、ジーキル博士に戻ってもすぐにハイドに取り込まれてしまう恐怖、一度は善人でいることを選んだがその覚悟は二ヶ月しか持たずまた薬を使ってしまったこと、二ヶ月間の抑制から開放された悪が暴走してしまったことなどが語られている。最終章を読めばこの騒動の顛末はわかるのだが小説としてのストーリー展開も非常に面白いので、ストーリーも少々説明しておく。

 

【登場人物】

・ジーキル博士

 裕福な家庭に生まれ、才能に恵まれる。

 医学博士、 民法学博士、法学博士、英国学士院会員、

 

・ハイド氏

 ジーキル博士の中の悪が解放されて出現する。体は小柄で醜悪。

 

・アタスン

 ジーキル博士の友人。弁護士。

 

・ラニヨン博士

 ジーキル博士の親友で同業の医師。

 

物語はアタスンが遠縁にあたるエンフィールドからハイドの話を聞くシーンから始まる(この二人は互いに無口でそっけないのに何故か連れ立っての散歩にいくことを日課にしている)

エンフィールドはハイドが少女に暴行する現場に居合わせたことがある。ハイドはエンフィールドの怒りをなだめるために小切手を渡すが、この小切手の名義がジーキル博士だったのである。

 

アタスンが預かっているジーキル博士の遺言書には、全財産をハイドに譲ると書かれていた。不安になったアタスンはジーキル博士を訪問しハイドに関して探りを入れるが、真実はわからないまま時が過ぎていく。

 

1年近く経って、国会議員のダンヴァース・カルー卿が殺害され、現場でハイドが目撃される。再びジーキル博士を訪問するアタスン。そこでハイドから届いた別れの手紙を見せられる。もう二度とハイドに会うことはないだろう。しかしその後、手紙は偽造であることがわかる。

 

ジーキル博士の親友ラニヨン博士が亡くなりアタスン宛に手記が残されていたが、「ジーキル博士が失踪または死去まで開封せぬこと」と書かれていた。

 

一方のジーキル博士は隠遁生活に入り完全に扉を閉ざしてしまった。ある晩、アタスンはジーキル博士の執事に頼まれて屋敷を訪ねた。鍵のかかった部屋からハイドの声が聞えるがジーキル博士の姿は見えない。執事とアタスンはドアを破って部屋に入りハイドの死体を見つける。

 

9章がラニヨン博士の手記、最終章の10章がジーキル博士の告白書となっている。

【運転者】

未来を変える過去からの使者 

喜多川 泰 (著) 

歩合制の保険営業の仕事をしている修一は顧客の大量解約で危機に陥る。そんな時に偶然乗ったタクシーの運転手との会話から人生が好転していく。


タクシーのメーターは走る度に減っていきゼロになるまで乗り放題。初めて乗ったときは69820円だった。突然現れて修一の私生活まで知り尽くしている運転手も不気味だった。ファンタジー要素と啓発的な金言とがマッチした不思議な作風だが幅広い年齢層で楽しめる工夫ということなのかもしれない。とにかくピンチの時に現れる。そして修一の運気を好転させるために必要な考え方を提示してくれるのである

 




私も人生の前半は運に恵まれていないと感じることが多かった。ところが潮目が変わったと感じるようなことがあってから割りと順調な日々を送っている。大切なのは大きなことではなく日々の小さなこと。その辺りのことを実に上手に本書は描いている。

 

ポイントは細かい点はいろいろある。その中で私がこれは本当にその通りだと感じた点は2点あった。

 

まず1つ目は夫が突然10万円のギターを買ってきたのに妻が怒らなかった件である。どんなことが運気を好転させるかわからない。出会った人の全てに関心を持つよう運転手にアドバイされた修一。四国のバーで知り合ったミュージシャンに感化されて買ったギターである。ポイントは自分に興味がないことでも相手にとって興味のある事(物)であるなら絶対に否定してはいけない。これは非常に重要なポイントだが意外と難しい。たまたま今回は修一もギターに興味を持ったが、そうならないこともある。必ずしも相手と同じ興味をもつ必要はないが、ギターを好きな人がいることは受け入れる。親子や夫婦などでは結構これは難しい課題だったりする。親は子に、どうしても自分の好みを押し付けてしまいがちである。

 

もちろん物語の中には様々な仕掛けがあり、妻も間接的に人生を学ぶ機会が訪れているために起きていることである。これは著者の仕掛けの上手さであると思う。

 

この不思議なタクシーに数回乗車するうちに少しずつ修一は人生を上手に生き抜くコツを身につけていくわけだが、もう一つ非常に大切な学びを得る。

 

もう一つのポイント、それはいつも「上機嫌」でいることである。

 

私は最近、選択理論心理学の勉強を始めたばかりだが、本書と共通する部分が多いことに驚いている。おそらく人生を自分らしく生きるコツは心理学でも哲学でも基本は同じなのだろうと思う。

 

選択理論では「幸せは責任」と表現している。幸せな人は問題を起こさない。幸せな人は他人を傷つけることが少ない。だから幸せは権利ではなく責任だという考えである。自分の機嫌は自分でとる責任がある。

 

著者の喜多川さんは(ウィキペディアによると)愛媛県出身とのことである。愛媛県は選択理論を積極的に学ぶ方々が多い。私の選択理論の師匠も愛媛県在住の方である。企業や学校でも講演を行っているようなので、もしかしたら何かしら本書のエキスとして選択理論が取り入れられているかも。などと自分勝手に妄想しながら読了した。

 

一冊の本との出会いで人生が変わることもある。これは読書好きなら誰もが感じていること。

しかし、一方で「それができたら苦労はしない」という感覚でこの類の本を手にとらない人も多いことは事実である。たしかに、それができないから苦しいのだ。それでも手に取ってほしいと思ってしまう。そして本書を手にとった全ての方の人生が好転しますように。