2023/05/07

【小説】緋色の記憶〔新版〕

トマス・H・クック著

老弁護士ヘンリーが15歳の頃に起きた事件を語る回想録である。

 ミステリ形式になっているが文学的要素が強く、どんでん返しや謎解き要素は皆無といってもいい。

しかし、老境に達した今だからわかる諸々が回想録という形式の中で活きている秀逸な作品。

15歳、思春期、と言ってしまえばそれまでだが、ヘンリーのロマンチシズムや人生の方向性がまだ定まらぬ焦りや父親との軋轢が、ヒシヒシと伝わってくる。倫理的にどうなのか、という部分はあるが、あくまでも読書感想文として、以下綴っていく。

 




登場人物は少ないが濃厚な人間関係が描かれていく。

 

・村に赴任してきた若い美人教師チャニング。

・英文学教師のリードとその妻。

リードは校庭でバイロンの詩を朗読して生徒たちにバイロンの人生を熱く語る。その妻は働き者だが文学を理解するタイプではない。子どものころに親に捨てられた経験がある。

・校長であるヘンリーの父。

堅物で教育だけが生きがい。ヘンリーに何かと指図するため煙たがられる。いい父親であることは間違いないが平穏であることが一番と考えるタイプ。

・ヘンリーの母。

  元は音楽の先生。動きが緩慢。正義感が強い。

・メイドのサラ。

  アイルランド移民。勉強に意欲的だが恵まれない環境で育った。

 

ヘンリーの父が校長を務める私立男子校にチャニング赴任してきたその時から物語は始まる。その時点からすでに後の悲劇を匂わせるザワザワ感があるが、終盤まで真実は明かされない。

 

その後、物語はチャニングとリードの親交が中心となる。芸術や文学を共有する2人に芽生える愛は繊細で他者を受け入れない独特の世界観をもつ。チャニング先生に勉強を教わりに行くサラと付添いのヘンリー。4人は幸せな時を過ごすが、旧弊な村の価値観とは相容れない。

 

一方で敏感とは言い難い人々の正義は自由を許さない。

倫理的には正しいことを言っているが、愛や芸術を理解はできない。

そこに少年の危うさが加わる。

ヘンリーの善意からでた行為がどんどんと事態を混迷させていく。

すべてはヘンリーが年老いてからの回想なので、終わりの始まりはこの時だった、というような苦い後悔が混じっている。おそらく15歳の少年がそのまま語り手だったなら面白くない作品になっていただろうと思う。

 

本書を語る上で欠かせないのがチャニングの受けた自由な教育である。

チャニングは1904年生まれ。父は名家の生まれで大学卒業後はボストン・グローブ社で働いていた。

妻(チャニング先生の母)の死後はチャニングを連れて旅に出る。一つの村や国のイデオロギーに縛られない育て方をしたかったからである。世界中を旅しながら父は学校に通っていない娘に様々な知識を授けた。

 

作中で旅行先でのエピソードの数々が語られているのも魅力となっている。イタリアのヴェロナでジュリエットの家のバルコニーに立った話も出てくる。物語の舞台となったマサチューセッツ州チャタムの閉塞感を著者は暗い穴蔵と表現し、チャニングの見てきた広い世界と対比させている。しかしチャタムはたしかに田舎かもしれないが作中にも度々出てくる灯台や自然の美しさも魅力の一つではある。 

本書のもう一つのテーマは「父性愛」だと思う。ヘンリーと父、チャニングと父、リードと娘。父親の深い愛は素晴らしいがヘンリーに至っては何とか父から逃げようと常に考えていた。チャニングにとっても父の教育は宝であると同時にこの時代の女性としては生きづらいアイデンティティを植え付けられてしまった感はある。母性に関しては多くは語られていない。何となく女性て的な真面目さや献身的な愛から距離を置いているのではないかと感じてしまう。

 

ミステリ小説としては物足りないほどに悪人が出てこない。逆に善意と正義が思いがけない悲劇を生んだのである。ヘンリーが裁判で事実を語っていたならば事態は変わっていただろうか。読了後に考えたのはそのことだった。

語るべきという人も多いだろう。しかし何を語ってみても傷つく人が増えるだけというやり切れなさと人生の難しさが本書なのである。萩結さんの表紙も独特な本書の雰囲気を上手に捉えていて、読了後に見ると涙が止まらなくなった。

 

 

著者トマス・H・クックコミュニティ・カレッジで国語と歴史を教える教師だったが、1982には雑誌「アトランタ」のブックレビューを担当する編集者として働き、その後専業作家となる。本書は1996年の作品。1997年のエドガー賞 長編賞を受賞。日本語訳の出版は1998年。我が家は娘が生まれたばかりだったので、このミスでも上位に入っていたがゆっくり読書するのが難しかった。新版が、それも電子書籍が一緒に出るのは嬉しい。

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