2023/05/09

ジーキル博士とハイド氏

 スティーブンスン著 (光文社古典新訳文庫)

 

 あまりにも有名すぎて、かえって読まれることの少ない名作。と巻末の解説にあるとおり本書をじっくり読む人は少ないのかもしれない。映画や舞台で脚色されたハイドの印象が独り歩きしている感がある。

 

二重人格がテーマの小説と思われがちだが、私は少し違っているように感じている。人間とは一つの人格のなかに矛盾した二面性(この小説が書かれた時代にはそういう表現しかなかったと思われる)を持つ生き物なのである。善悪の混合体であり一つの人格の中に善悪がある。不完全な存在であるからこそバランスが取れているのというのが著者の主張ではないだろうか。

 




誰もが持つこの善悪という二面性を分離してみようとジーキル博士は考えて善悪分離の薬を発明した。単調な研究ばかりの毎日から解放された邪な心は喜びを見い出し、正しい方の心も恥や罪悪感に悩まされなくなるのだから良いことずくめのように思えた。確かにハイド(隠れる者という意味)が完全なる悪として存在できるようになった点では成功だ。しかもハイドになっているときは頭脳が明晰で精神の張りもある。罪悪感など持たずに悪行三昧なのである。

 

しかし、ジーキル博士は完全な善人ではなかった。怖いのは善悪分離薬を使ううちにバランスが崩れて善悪の混合体であるジーキル博士は悪に取り込まれていくことである。次第に薬は効かなくなりジーキルに戻るのが難しくなる。怖くなったジーキル博士は善人の道をえらぶが抑圧された悪が暴れ出して重大事件を起こすときがくる。

 

面白いのは、悪は悪だけで存在しうるが、善は善だけでは存在できないということである。もう一つ興味深い点は現代でいうワーカホリック状態が続くと悪への憧れが強まることである。ハイドになっている時は人相まで変わってしまう。ハイドが小柄なのは悪が今まで抑圧されていて発育不全だからだという説明まであって、ホラーなのかファンタジーなのか不思議な作風である。しかし緩いエンタメ性の中に非常に大事なことが示唆されているから面白い。趣味や自分の楽しみを持つこと、時には要領よく怠けること。ジーキル博士は勤勉で向上心が強いが研究生活は無味乾燥でつまらないと感じている。研究で社会貢献することよりも自分が尊敬される存在でいることに努力は注がれている。ストレス解消として悪を求めるという考えは身近に恐怖が迫ってくるように感じる。

 

10章からなる本書の最終章は自ら破滅の道を選んだジーキル博士の告白書である。ここに至るまでの経緯と善悪分離薬を作るに至った心理、ジーキル博士に戻ってもすぐにハイドに取り込まれてしまう恐怖、一度は善人でいることを選んだがその覚悟は二ヶ月しか持たずまた薬を使ってしまったこと、二ヶ月間の抑制から開放された悪が暴走してしまったことなどが語られている。最終章を読めばこの騒動の顛末はわかるのだが小説としてのストーリー展開も非常に面白いので、ストーリーも少々説明しておく。

 

【登場人物】

・ジーキル博士

 裕福な家庭に生まれ、才能に恵まれる。

 医学博士、 民法学博士、法学博士、英国学士院会員、

 

・ハイド氏

 ジーキル博士の中の悪が解放されて出現する。体は小柄で醜悪。

 

・アタスン

 ジーキル博士の友人。弁護士。

 

・ラニヨン博士

 ジーキル博士の親友で同業の医師。

 

物語はアタスンが遠縁にあたるエンフィールドからハイドの話を聞くシーンから始まる(この二人は互いに無口でそっけないのに何故か連れ立っての散歩にいくことを日課にしている)

エンフィールドはハイドが少女に暴行する現場に居合わせたことがある。ハイドはエンフィールドの怒りをなだめるために小切手を渡すが、この小切手の名義がジーキル博士だったのである。

 

アタスンが預かっているジーキル博士の遺言書には、全財産をハイドに譲ると書かれていた。不安になったアタスンはジーキル博士を訪問しハイドに関して探りを入れるが、真実はわからないまま時が過ぎていく。

 

1年近く経って、国会議員のダンヴァース・カルー卿が殺害され、現場でハイドが目撃される。再びジーキル博士を訪問するアタスン。そこでハイドから届いた別れの手紙を見せられる。もう二度とハイドに会うことはないだろう。しかしその後、手紙は偽造であることがわかる。

 

ジーキル博士の親友ラニヨン博士が亡くなりアタスン宛に手記が残されていたが、「ジーキル博士が失踪または死去まで開封せぬこと」と書かれていた。

 

一方のジーキル博士は隠遁生活に入り完全に扉を閉ざしてしまった。ある晩、アタスンはジーキル博士の執事に頼まれて屋敷を訪ねた。鍵のかかった部屋からハイドの声が聞えるがジーキル博士の姿は見えない。執事とアタスンはドアを破って部屋に入りハイドの死体を見つける。

 

9章がラニヨン博士の手記、最終章の10章がジーキル博士の告白書となっている。

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