勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方
苫野一徳(著)
※苫野一徳先生は哲学者であり教育学者。熊本大学大学院教育学研究科・教育学部准教授。一般財団法人軽井沢風越学園の発起人でもあります。
本書は「どうして勉強しないといけないの?」という問いに答えを出すのが目的です。
しかしこのような問いに絶対の正解はありません。どれも正しいような気もするけれど同時にちょっと違うような気もする。だからこの問いは「なるほど、こう考えればスッキリするな」という納得解を求めていくものなのです。まずこのことを理解していただきたいのです。
教育をめぐっては、とにかくいろんな意見が出てくるものです。それは、私たち全員が教育を受けた経験があるからです。だからこそみんなが教育に対して何らかの言いたいことを持っています。そのためときには激しい対立が生じてしまいます。
💬 まだ導入部分ですが、苫野先生の熱が伝わってくるような話が続きます。教育者という立場で本書を読むか、親の立場なのか、自分自身の勉強する意味を知りたいのかで読み方は変わってくるのでしょう。平易な言葉で書かれていますが子どもが一人で読むには難しいかなとも思います。とにかく教育問題は対立が起きやすい。そのため苫野先生は本題に入る前に、このような問題を考えるうえで大切なことを2つ提示しています。
その1、一般化のワナ
これは、自分だけの限られた経験を他の人にも当てはめてしまうことです。特に成功体験が積み重なると、一般化のワナにハマりやすくなります。いつどんなときでも自分のやり方は正しいのだという錯覚に陥ってしまうからです。
「一般化のワナ」の例として、最近の子どもたちはどんどん凶悪化しているというものがあります。
わずか数例の事件を聞いただけで、最近の子どもたちという一般化をしているのです。データを見ると実は少年犯罪の数はこの20~30年間はほとんど変わっていないのです。凶悪犯罪の数もほとんど変わっていません。むしろ1950年60年代に比べると減少しているといえます。増えたのは少年犯罪についての報道の数なのです。今はインターネットでさまざまな情報が飛び交います。私たちが触れる情報量が増えたのです。似たような例は数え上げれば切りがありません。
その2、問い方のマジック
「学校の勉強は実生活に役に立つか立たないか」というように二択で問われると、絶対的な正解のない問題であっても、どちらかが正しいのではないかと考えてしまう傾向が私たちにはあります。
- ゆとりがいいか、詰込みがいいか
- 競争すべきか、協力すべきか
- ほめて伸ばすか、叱って伸ばすか
などなど教育の問題は問いのマジックに陥りやすい問いが多いのです。まずは、どちらが正しいかと問うことをやめましょう。
ドキッとする内容でした。人は質問されると答えなければならないと思い込んでしまうものだということを心理学の本でもよく目にします。また正しいか正しくないかという議論も蔓延している印象があります。本当はこんな議論はしたくないのだけれどと言いながら巻き込まれてしまいイヤになることもあるのですが…でも、質問すること自体は大切なことなのです。問い方を考えるということです。気をとり直して本題に入っていきましょう。
「勉強するのは何のため?」
さて、いよいよ本題の「勉強するのは何のため?」を考えていきましょう。くどいようですが最初にここで出す答えは納得解であることを理解してください。もちろん一般化に気をつける必要があります。
次に問い方を「何で勉強しなければいけないのか」ではなく「自分はどういうときに勉強する意味を感じられるのだろう」に変えてみてください。答えは一つじゃなくていいのです。
夢を実現するために必要な勉強だから。「わかる」喜びを感じたから。自分の興味・関心に重なったから。とにかく自分はどういうときに勉強の意味を感じるのかと問うことが重要なのです。自分なりの正解をいくつも見つけてその意味を実感するための条件を整えればいいのです。
ただし、勉強する理由が自分や他人を傷つけたり苦しめたりしているなら、思い切って捨てて別の意味を見つけましょう。
さて、ここまで「絶対の正解はない」と言ってきました。しかし、実はみなさんが納得する共通の「勉強する意味」を見いだすことはできるのです。
それは「自由になるため」です。
<自由>とは
できるだけ納得して、さらにできるなら満足して、「生きたいように生きられる」という実感のことです。
※本書では一般的な自由のイメージとは違うため<自由>と表記して区別しています
まとめると、この問の第1の答えは絶対の正解なんてない。だから自分なりの正解、自分なりの勉強する意味を見つけようということ、
そして第2の答えは、私たちが勉強する根本的な意味は<自由>になるためなのだということです。
💬 苫野先生は「自由」はいかに可能か という本も出されています。自由というテーマで1冊の本が書けるほど深いテーマなのです。本書も自由がキーワードになっています。
「なんで学校に行かなきゃならないの?」
それでは、なぜわざわざ学校に行かなきゃいけないのでしょうか。<自由>になるために勉強が必要だというなら家ですればいいじゃないか。そう思う人もいるかもしれません。
学校とは、<自由>になるために必要な力を育む場所であり、基礎的な読み書き計算などの力や専門的な知識や技能をある程度順序立てて、できるだけ効率よく学んでいく場所です。少なくともそういう場所として作られているべきです。
しかし誰もが自分は<自由>なんだ、何をやるのも勝手なんだと主張したらどうでしょう。きっといろんなところで対立や争いが起こってしまうことでしょう。人間は支配され、人間としての自由を奪われてしまうことに耐えることができないのです。だとするならば、どうすればこの<自由>のせめぎ合いをできるだけ軽くして、みんなが<自由>に生きることができるのでしょうか。
その考え方は一つしかありません。それは、お互いがお互いに<自由>な存在であることを、まずは一旦認め合うことです。これを、自由の相互承認といいます。
「自由の相互承認」
私たちは自分が<自由>になりたいのであれば、これをただ主張し合うのではなく相手の<自由>もまた承認する必要がある。そしてその上で、争いにならないよう調整し合うのです。
それは様々な知識や技能を身につけるだけでなく、自由の相互承認の原理をきちんと理解し、その感動を身につけることにあるのです。
だからこそ私たちには学校というところが必要なのです。
学校とは全ての子どもたちが<自由>になれるよう、様々な知識、技能を育み、そしてまた自由の相互承認の感度を育むための場所なのです。
学校で学んだ知識は社会に出たらほとんど使わない知識であるのは事実です。しかし社会で生きるために必要な知識の大半を学校で学んでいるのも事実。何の役にも立たないというのは一般化のワナなのです。
💬 自由の相互承認は深い意味を持っています。自由に生きるためにはコミュニケーション能力や職業につく能力がなければならない。そして自由の相互承認の感度が育まれていなければ、自分のわがままを押し通すだけで他人の自由を踏みにじって争いが起きる。その結果自由が奪われることだってあるという理論です。苫野先生といえば自由の相互承認と巷で言われているようですが、今回も実に熱く、繰り返し語っていらっしゃいます。
「いじめはなくせるの?」
他人がいるから私たちは思うがままに生きられない。そこで私たちは他人を排除しようと思うのです。それがあからさまで大規模な暴力になると戦争です。ネチネチコソコソやると「いじめ」と呼ばれます。
何となくムカつくから、自分が強くなった気になれるから。そしてその底にある気分もつまるところ<自由>への欲望にあるのです。そしてそれがいじめと繋がってしまうのは、さらに2つの理由があると思います。
1つ目の理由は、自己不十全感です。自分に対する不満のことです。つまりどこかで自分を認めることができずにいるからです。誰かムカつくと言っていじめをする人は本当は自分自身にムカついているのです。なんだか何もかもにムカついてしまうのです。
なぜ自分が認められないのか、それは人から認められているという実感が十分得られていないからです。多くの場合は無条件の愛情や承認をまずは親から与えられます。ところが、本当に残念ながら子どもを愛せない親や、あるいは行き過ぎた期待で子どもを押しつぶしてしまう親だってときにはいます。そして学校では、しばしば厳しい管理にさらされます。管理というのはつまり相手を信頼していないからこそするものです。大切なことは1人の先生の承認や信頼に頼りすぎるのではないシステムを考えましょうということです。
もう1つの理由は、逃げ場のない教室空間です。もし教室からもっと簡単に逃げることができたなら、もしいじめをしてくる生徒との人間関係を上手にかわしていくことができたなら、いじめ問題はもっともっと克服しやすいものになるでしょう。
多くの場合「逃げちゃいけない」「みんなと仲良くしなさい」などと言われます。もっと立ち向かった方がいいとも言われます。立ち向かった方がいいときもあれば、逃げ出した方がいいときもあるのに、どっちがいいのかというような一般化のワナにすぐハマってしまうのです。
人と仲良くできることは人間関係における生きる力だと思います。困難に立ち向かえることだってとても立派な生きる力です。でもまた同時に、深刻な危険からは逃げる、どうしても合わない人をうまくやり過ごすということだって、とても切実なそして現実的な生きる力だと言うべきです。
大人はその気になれば、嫌な人間関係に縛られることなく、いろんな人たちと付き合うことができるのです。あるいはできるだけ人と関わらないこともできるのです。
ところが学校はどうでしょう。
毎日同じ空間を共有しなければならない子どもたちにとって、どうしても会わない友人、いじめをしてくるクラスメイトたちをうまくやり過ごすことは物理的に難しいのです。
💬 いじめはなくならないと世間一般には言われます。私もそう思っていました。しかし苫野先生は、いじめをできるだけ起こさせないことはできるし、そのための仕掛けは作れると本書の中でいくつかの提案をしています。実現可能かどうかは教師という立場でなければ判断できないのではないでしょうか。先生、頑張って!とエールを送ることしか今の私にはできないというのが正直な気持ちです。興味のあるかたはぜひ本書を読んでみてください。
💬 最後に「ウワサの保護者会」の話に戻ります。この番組の中で、あるお母さんが「子どもが楽しそうに勉強しているとちょっとムカつくというようなことを言っていました。そのお母さんの言うことによると「勉強は苦しいものでそれを乗り越えることに意味がある。自分も苦しさを乗り越えてきた」というようなことでした。また、ゲストの堀江貴文さんは「勉強は楽しいからやるんだ。嫌いなら勉強なんてしなくていい」と話されていました。自分の成功体験からくる「一般化のワナ」にハマらず自由の相互承認を実行するのは難しいものなのだと実感できる内容でした。番組の中で苫野先生のお話は堀江さんに比べると地味な印象でしたが、本を買って読んでみたいという思いにつながったのです。
苫野先生の先生として有名な竹田青嗣先生の 愚か者の哲学 も読みやすくわかりやすい哲学の本です。ご興味あるかたは是非‼
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