2023/05/20

勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方

 苫野一徳 著

 

※苫野一徳先生は哲学者であり教育学者熊本大学大学院教育学研究科・教育学部准教授。一般財団法人軽井沢風越学園の発起人でもある。

2017122日放送のNHK ウワサの保護者会「どうして勉強しないといけないの?」を偶然見た。番組には複数の保護者と尾木ママが出演し、子どもから聞かれて困った質問「どうして勉強しないといけないの?」の答えを考えながら、苫野先生とホリエモンのコメントを紹介するという流れだった。そのコメントで本書に興味を持ったわけだが、それから6年経った今でも読み返す私のベスト本になったのである。


本書は「どうして勉強しないといけないの?」に答えをだすのが目的の本だが、まず3つの考え方が大前提になっている。

その1、一般化のワナに注意

・これは、少ない事例、経験で過度に一般化して考えてしまうこと。たまたま貴方に合わなかった、たまたま上手くいった、ということを他の人にも当てはめてしまうこと。

 

その2、問い方のマジックにひっかからない

・二択で問われたため、絶対的な正解のない問題を正しいか間違っているかで考えてしまうこと。

 

その3、納得解をみつけよう

・こういう正解のない問題は~どれも正しいような気もするが、同時にちょっと違うような気もする。こういう問題は「なるほど、こう考えればスッキリするな」という納得を求めていく。

  

さて、いよいよ本題の「勉強するのは何のため?」を考えていくが、まず最初にその答えは納得解であることを理解する。次に問い方をなんで勉強しなければいけないのか、ではなく「自分はどういうときに勉強する意味を感じられるのだろう」に変える。答えは一つじゃなくていい。もちろん一般化にも気をつける必要がある。

 

苫野先生は本書で、勉強する意味についての答えを出している。それは「自由になるため」である。

 

自由に生きるには力が必要になる。ではなぜ学校に行かなければならないのか。家で勉強してもいいはずである。その答えは、自由の相互承認を学ぶためである。

 

学校で学んだ知識は社会に出たらほとんど使わない知識であるのは事実。しかし社会で生きるために必要な知識の大半を学校で学んでいるのも事実。何の役にも立たないというのは一般化のワナである。 

 

苫野先生は「自由」はいかに可能か という本も出されている。自由というテーマで1冊の本が書けるほど深いテーマということである。本書も自由がキーワードになっているが、自由の相互承認はさらに深い意味を持っている。自由に生きるためにはコミュニケーション能力や職業につく能力がなければならない。そして自由の相互承認の感度が育まれていなければ、自分のわがままを押し通すだけで他人の自由を踏みにじって争いが起きる。その結果自由が奪われることだってあるのだ。

 

これは大人も十分に考えなくてはいけない内容だと思う。

 

話はウワサの保護者会に戻るが、この番組の中で、あるお母さんが「子どもは楽しそうに勉強しているが、私は勉強は苦しいものでそれを乗り越えることに意味があると考えている」というようなことを話されていた。一般化のワナに陥らず、自由の相互承認を実行するのは実は結構難しいのだと感じた。

 

さて、本書の終盤は「いじめ」はなくせるのか、という大きな問題に入っていく。

いじめの原因として、一つは自己不十全感。これも自由の欲望に関係している。もう一つは「逃げ場のない教室空間」をあげている。時として立ち向かうことも大切だが深刻な問題からは逃げる。信頼、承認、多様性、などのキーワードが続く。いじめの問題に関しては簡単に議論できない。大人の世界からだってなくならないのだから、と考えてしまうが自由の相互承認と視点でみるとまた違ってくるのかもしれない。

 


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