追熟読書会: 人はとことん絶望することによって、自分の体の浮力を取り戻す

人はとことん絶望することによって、自分の体の浮力を取り戻す

「愚か者の哲学」愛せない場合は通り過ぎよ



竹田 青嗣 (著)




哲学の本としては感動するくらいに読みやすいです。今まで読んだ哲学の本は中学生向けの本でさえも理解しきれていなかったのですから(これは私の理解力の問題なのですが)5年前に初めて本書を読んだときには感動しました。


本書は4部構成になっています。

Chapter1は導入部分、Chapter2~4は子どもの哲学、若者の哲学、大人の哲学と解説がつづきます。読みやすいとはいえ哲学の本ですからそれなりに名言や警句の引用があって難解な文章もでてきますので、キーワードを拾いながらまとめていこうと思います。


Chapter1「哲学を知れば、人生は上手くいくのか」

人間はルールの網の目だ


18世紀の哲学者ヒュームは「社会はルールの網の目だ」と言いました。この網の目とはネットワークのことです。その後、20世紀になってヴィトゲンシュタインは「社会は様々なゲームの集まりだ」と言いました。


それでは、人間はどのような存在なのでしょうか。人間とは常に可能性に向かうような存在、つまり「欲望」する存在です。


人間の「欲望」は、まず自己への欲望です。だから人間は何よりまず自我として生きています。しかし、自我は他者なしには成り立たないので人間の欲望は自己と他者の関係の中に投げ込まれています。この関係が実はルールの網の目なのです。

💬 本書を通読するのは3度目です。なぜ再読したかというと、合理的配慮、社会モデル、社会的障壁などという言葉を日々考える中で本書の「人間はルールの網の目だ」という言葉を思い出したからです。ルールの網の目を考えたときに合理的配慮とは何かが少し見えてきたのです。

 


Chapter2子どもの哲学」


いたずらと自己愛


大人と子どもの初めのルール関係は「禁止」です。子どもは最初は親の与えるルールを律儀に守っていますが、あるときから「いたずら」をするようになります。与えられたルールをいたずらという探検で少しずつ試し、理解していくのです。こういう経験を通して、いつか大人たちに代わって自分たちがルールを形成していく、その準備をしているのです。

人間の初めの「欲望」は褒められること、自己愛です。我慢することや禁止を守ること、ルールを守ることで褒められると嬉しい。これが自我というものの初めの萌芽なのです。したがって、自我の本質は、その大きな部分を褒められること、愛されること、つまり他者から評価されることとして作り上げられるのです。

子どもは生育するに従って、自分は自分だという意識が確立され、それは自己理想という形をとるようになります。親の期待に応えて良い自分でありたいけれど、なかなかその期待に十分に応えることは難しいというのが人間の自我のまず第1のトラブルです。

次に、自分の中に利己心という醜いものがあることを自覚して悩むこれが第2のトラブルです。

💬 平易な言葉で書かれているのでサラリと読んでしまいがちですが深い内容です。子どもとしての自分を思い返せばダメのシャワーを浴びて育ったことは納得できますが、親の立場で考えれば否定したくなる部分もあり複雑です。自分は子どものころにいたずらなんかしなかったと言ってしまいそうなので、急いで次に進みましょう。

●価値のルールと他者関係


自我というものは生育の途中の人間関係の中で徐々に形成されるものです。様々な禁止や規範を暗黙のルールとして覚え込み、そして忘れること。つまり身体化することで文化的な存在として生育します。このルールは、真善美のルール、人間的な「価値のルール」と言っていいでしょう。

価値のルールがうまく形成されていれば、他者関係はうまくいきます。
この価値のルールとは、周りの世界にうまく適応するための本能の代替品であって、複雑な人間世界のルールの網の目にうまく適用できるように形成されるものだからです。

思春期以降、他人とうまく関係がとれないと思える時ときには、自我のルール形成が何らかの理由で上手くいかなかった可能性があると考えてよいということです。

親子関係における価値ルールの形成の過程で生じる重要な問題点を整理してみましょう。
(1)父親と母親のルールが一致しないで分裂している場合
(2)親が与えるルールと社会のルールが分裂している場合
(3)親のルールが愛情によってではなく自分たちの都合で与えられている場合

💬 他人と良好な関係を作るには、困ったときによく話し合って関係を修復できる能力が重要であり、他者関係がうまくいかないときは親子関係での自己ルール形成にねじれがなかったか考えてみることが必要と竹田先生は語っています。(1)と(2)はよくあることで、さらに祖父母が加わったねじれの中で育つといってもいいように感じます。それでもほとんどの人がバランスをとりながら大人になっているような感覚があります。私はこの3つの中では(3)が重大な問題を引き起こすように思えてなりません。

 

💬 本章には「自我とは、自己自身に対する長いロマンスの物語」という一文がでてきます。竹田先生は関係性の快感や愛着のようなことをエロスと表現したり、理想をロマンと表現したりしています。人間に対する愛を感じる言葉ですが、この「長いロマンスの物語」も心を掴まれる感覚があります。

 


Chapter3若者の哲学」


●ほんとうの自分


子どもは、ある時期になると自分の自由を発見します。これは言葉が少しずつたまってきて一定の水位を超えてあふれ出すように内面で思考が始まるからです。

若者の思考の最大の仕事は自分を正当化することです。そして自分を世界の絶対的な主人公とすることです。しかし現実はやはり親や社会のルールによって拘束されていますのでそこから抜け出したいと思うようになります。

何かしら上手くやっていけないと感じる場合、人は「ほんとうの自分」がどこかにあるのではないかと考えたくなります。そして様々なルールに縛られているために「ほんとうの自分」を発揮することができないというイメージをもちます。しかし実は人間とはルールに縛られていることで自由を失うどころか、むしろ自己ルールをしっかり打ち立てることで初めて自分の自由を確保できるような存在なのです。

必要なのは「ほんとうの自分」を見出すことではなく、自分を捨てることでもなく、ただ時間をかけて自分を作り上げることです。

💬 本書では「ほんとう」は漢字の本当ではなく平仮名の「ほんとう」で統一されています。「ほんとう」とは実在物ではなくいつの間にか人の心の中に住みつくものとして書かれているからです。chapter3の終盤では恋愛において「ほんとう」を追いもとめすぎると傷つけあう可能性があることにも言及しています。本書を読むと哲学は愛に溢れていると感じます。

●自己ルールは真・善・美


人間は必ずしも立派な存在意味によって生きるわけではなく、むしろ人は日々の小さな可能性によって生きる」とヘーゲルという哲学者は言っています。人間の本質は自己(自我)価値への欲望なのです。

まずは立派な人間、よい人間になりたいと熱望し、次に徐々にそれをなだめて日々の可能性があれば生きていけることを受け入れていくようになるのです。

日々の可能性とは、小さな人間関係のなかで認められたり愛されたりすることです。

人格や人間性を社会的な価値と区別して考えるとき、哲学では自己ルールとして考えます。これが真・善・美についての規範です。

真とは、内的な「ほんとう-虚偽」のルールです。
自分の決断や決定について周囲から非難される可能性があっても自分なりの判断を肯定して是認できる感覚にこだわることです。

善とは、「よい-わるい」のルールです。
これは人間的な価値の基本秩序ですが、源泉は母親との禁止や約束を守ることです。それを守ることはよいことであり、守ることができる自分はよい子になるという意味です。

美とは、「きれい-きたない」のルールです。
このルールは、いわば感受性のルールで文化や環境の中で形成されるものです。これを欠くと基本的な人間的感情の源泉である憧れやロマン性を形成できなくなります。

●了解ゲームと承認ゲーム


人間関係とは自己価値をめぐる総合的な承認ゲームです。様々なルールにのっとって各人は目標をめがけて行動します。そしてその成果によって評価され、この評価に応じて社会的な報酬を得るのです。

この社会的承認ゲームの中で、私たちは様々な他者たちと出会い人間的に親しくなります。これは社会的承認ゲームの場面とはまた違った具体的な人間関係の場面です。このとき人々はそれぞれの自己ルールを交換し合い、個性を持った人間として関係し合い了解し合う、総合的な了解ゲームなのです。

💬 日々の可能性の中で生きるという言葉に救われる思いですが、一方でこの日々の小さな人間関係の中で支配したりされたりしているわけで、互いに了解し合うことの難しさもまた感じてしまいます。 

●三枚の世界像


一枚目の世界像は、親から与えられいつの間にか内面化していったルールのことで、学校で教えられる一般的なルールが作り上げた自然な世界像のことです。閉じられたムラ社会の役割関係の中でずっと生きていく場合には、一枚目の世界像さえあれば生きていくことはできます。

二枚目の世界像は、大学で学んだり読書によって新しい世界観や理念に出会うときに掴む世界像です。文学や芸術などの教養的世界であったり、これこそ真実だと思える強い自我理想だったりします。

三枚目の世界像は、二枚目の世界像を超えてまた別の世界像があり得ることを知ったときにやってきます。三枚目の世界像を経験して初めて人は、どんな人間もそれぞれの世界像のうちに生きていることを理解します。また、社会とは様々な世界像を持った人間同士が関係を結び合い、それを交換し合って生きている場所だという感覚を身につけるのです。

💬 この三枚の世界像は本書の中で特に好きな項目です。読書から得るものは非常に大きく世界観を変えてくれますが、若い時に読書で二枚目の世界像を手に入れた人は周囲との価値観のズレのようなものを経験して苦しむのかもしれません。

 


Chapter4大人の哲学」


●絶望すること


人はとことん絶望することによって、そこから少しずつ生きようとする自分の体の浮力を取り戻します。

絶望には2種類あります。可能性の絶望と自分自身への絶望です。真の絶望は自分自身について絶望することだと、キルケゴールは言いました。日々の可能性の絶望はまたリセットされて新しい可能性と入れ替わります。

人間にとって自分の人生は一つの物語をなしています。自己に絶望すると私たちは自分を物語の主人公だと認められなくなります。主人公のいない物語は物語ではなくなり、単なる事実の連なりになってしまいます。そしてそういう人生は私たちにとって耐えがたいのです。

極端な絶望よりもむしろ問題なのは、私たちが年を重ねるにつれて少しずつ自己自身への絶望を積み重ねていくことです。そして知らないうちに自分と世間に唾を吐きかけ、自分のロマン性を腐らせているということです。

長く生きていると小さな挫折の繰り返しによって、水道管にたまる水垢や細胞にたまる老廃物質のように、自然にニヒリズム(厭世感や人間嫌い)がたまってきます。これは一つの自我の防衛方法と考えるのがわかりやすいでしょう。太宰治の小説の主人公は苦しい状態になると何もかも投げ出して自己の生への配慮を保とうとします。これはニヒリズムに逃げ込んでいるということです。
  (参考文献:斜陽)

自分の生き方や存在の仕方を気遣う努力を無駄なこと、若者のロマンにすぎないなどと考える大人がいます。そしてこういう考え方に対して「成熟した考え」「大人の考え」などと一種の優越感さえも持っていることがあります。しかし大人になることは、青年のロマンを上手に制御して過剰なロマンに負けない健全な精神を育て上げることです。

 💬 あとがきに「自分の欲望に敗れる若者は弱きものである。しかし、自分の欲望を腐らせる大人は愚か者である」と、読み人しらずの格言が書かれています。また帯には「自己への絶望は水道管にたまる水垢のように魂を汚す」という言葉もあります。非常に説得力のある言葉だと思います。哲学の本を読んでいると、哲学者と言われる方たちは、若いときに絶望を味わっている方が多いと感じます。そう考えると難しい哲学書が少し身近に感じられるようになりました。理想や目標ではなくロマンと表現していることもイメージしやすさにつながっているのでしょう。
 

●愛せない場合には、通り過ぎよ


これはニーチェの言葉です。

自分の立場が不利になると相手が間違っている、不当である、理不尽であると考えたくなるものです。こういうときにルサンチマ(妬みや恨み)が発動します。ルサンチマンは人間にとって最も根本的な関係感情です。他者たちの誤りや愚かさを義憤に転嫁することで、正しい自分の像にしがみつき、相手を攻撃し、批判し続けることを生の糧としているのです。

愛せない場合には、通り過ぎよ。
彼らは彼らなりの言い分でそうしているのだから、彼らを好きなようにさせておくがいい。

どれほど相手が理不尽で間違っていると感じても愛せない場合は、どんな試みも無駄です。
どんな批判も論難も相手を説得することはできません。あなたの心に既に怒りと復讐心が住みついているがゆえに、どんな試みも結局はルサンチマンをかき立て、ただ双方の生をスポイルすることに終わるのです。

💬 大変有名なニーチェの言葉を取り上げています。ニーチェの本も一通り読んでいますが、なかなか内容を把握するのが難しくて理解し切れたとは言えない状態でした。「通り過ぎる」の意味の解釈も人それぞれなのでしょうが、ここで書かれているように「愛せない場合は、どんな試みも無駄」という一文を考えると自分なりの答えを出しやすくなるように思います。

●幸福と不幸


我々の欲望と、我々の能力との不均衡にこそ、我々の不幸は存する。
これは、ルソーの言葉です。欲望が立ち上がってくるのに、それを実現する方法が見いだせないことによって人間は不幸になる。

この不幸を回避するために条件が二つあるとルソーは言っています。
一つは欲望を実現するための能力、あるいは手段を高めること。
もう一つは、欲望の対象を変更すること。

実現の見込みのない、つまり不毛な欲望を持ち続けている場合、自分で自分を不幸に陥れています。

私たちは何が幸福なのか、どうなれば幸福に生きられるのかをはっきりしているわけではありませんそれでも私たちは、不幸に向かってではなく、幸福になろうとして生きています。

💬 したいという気持ちとできるという能力の誤差に不幸を感じるというのは、納得としか言いようのない内容でした。どんな人も不幸に向かってではなく幸福になろうとして生きているということも感慨深い内容です。

 

💬 読了してから全体像を見ると、大人になるにしたがって絶望に近づいていく姿が浮き彫りになりますが、それは自分自身で書き換えることのできる物語だという希望も与えてくれます。大人の対応という言葉がよく聞かれる時代ですが、大人はもう少しロマンを持たなければいけないのです。

 

💬 当初の再読の目的だった合理的配慮について立ち止まり何度も考えました。個々人がルールの束であり、多人数が集まって社会のルールを作る。そしてそのルールに生きづらさや困難を感じる人もでてくる。そのイメージで考えたときに困難を感じている人を支援するという一方的な考えは新たなバリアを作っているような気もします。もう少し合理的配慮については勉強してみます。

 

💬 今回ハマったのは「三枚の世界像」という言葉です。なぜ過去2回はこの言葉に反応しなかったのだろうということも面白い考察になりました。この数年で急激にオンラインでの学びが増えてきました。それはよいことなのですが、余りにも一枚目の世界像を強力なものにするためのスキル獲得だけが先行し、生産性を追求して潰れていく人をみることも増えました。なぜかこのような人は頑なに心理学や哲学を拒否します。その心情は私にはわかりませんが、仕事の実務能力だけで生きていくことは苦しいことだろうと推察します。読書は本当に大きな喜びを与えてくれます。本書もまた読み直すことでしょう。次に読むときはどんなことにハマるのでしょうか。今から楽しみです。

 

💬 いかがでしたでしょうか。かなりザックリとまとめました。哲学に詳しい方からはお叱りを受けるかもしれませんが、全体像を掴むことを優先して書いてみました。ちょっと違うと感じた方も、興味を持たれた方も、現在ネットで古本のみの取り扱いといなっていますが是非本書を読んでみてください。

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