心は存在しない 不合理な「脳」の正体を科学でひもとく
本書は心など存在しないと論破することを目的としているものではありません。
なぜ人間だけが心を持ち、心に振り回されているのか。
もし、脳=心だとするならば、それはどのような脳の働きなのか。
このようなことを追求したいという思いから書かれているのです。
「はじめに」で本書を書くに至った経緯の説明があります。
そのあと、心の一般的な解釈、歴史上の定義の移り変わりと続き、脳の構造に関する記述もありますが、このブログでは歴史、実験や研究の具体例などは基本的に取り上げません。その部分に興味のあるかたは実際に本書を手にとって読んでみてください。
(毛内先生の別の著書、脳を司る「脳」には、さらに詳しく脳の機能のことが書かれています)
まず心とは何かをひもといていきます。
一般的な心の解釈
心と体の関係は長い間議論されてきた深い問いです。
心は体とは一体なのか、それとも完全に切り離して考えることができるのか。この問いに答えることは容易ではありません。心の働きと脳にはどのような関係があるのでしょうか。心は脳の仕組みにすぎないという研究が盛んになってきてはいるものの、まだまだわかっていないことの方が多いのです。
脳科学が未熟な学問であることを念頭に置いた上で、今後の心理学や哲学、物理学の発展が心の理解に不可欠なのです。
心の働きに深い関係がある脳の機能は4つに分類できます
- 認知機能~知覚、注意、記憶、思考と推論、言語
- 情動機能~情動、感情
- 社会的機能~共感能力、他者の意図、信念、欲望を推測し、社会的相互作用を理解するプロセス、コミュニケーション能力
- 自己認識~自分の存在や状態についての認識、評価をする能力
ここまでが基本的な理解です。
※本質主義と構成主義
世の中には、本質主義と、構成主義という相対する2つの考え方があります。本質主義とは、物事には「唯一絶対不変の指標」があるという考え方です。一方の構成主義は、環境や状況に応じて絶えず変化し続けるという考え方です。学問は本質主義と一見型破りのように見える構成主義を、行ったり来たりする中で発展してきました。
💬 本書を読み進むうえで絶対に抑えておかなければいけないのは「本質主義」でしょう。何でもすぐに結論を出そうとする時代ですから、かなり気をつけないといつの間にか本質主義に偏ってしまい、情動と感情も混同してしまいそうです。
ここからは、自己意識、性格、感情、ストレス応答、現実、と分解して考察を進めていきます。
自己意識~泣くから悲しいのか、悲しいから泣くのか
この問題には古典的な2つの説があります。
「泣くから悲しい」~感情は身体的な変化によって生じる
「悲しいから泣く」~感情が先にありその結果として身体的な反応が起きる
→答えは単純に白黒つけられるものではなく、もっと複雑な相互作用の理解を必要とします。
人間が抱く喜怒哀楽のような情動には、認知の関与を無視することはできません。
では、どのように認知は情動と相互作用するのでしょうか。
私たちは外界からの刺激を実測し、これは何だろうと自問します。
「カナシミ」だと結論付けることもあれば、これは「ヨロコビ」だと考えることもあります。「カナシミ」だとしたら、どう表出すればいいのだろうと参照することでその時々に応じた適切な情動表現を模索します。
したがって、悲しいから泣くこともあれば、悲しいけど泣かない、ということも生じるのです。
一人ひとりが異なる経験と記憶を持っているため、同じ現象を体験しても人によっては全く違う反応を示すことがあります。同じ人でも状況に応じて異なる反応をすることがあります
感情とは、このように主観的なものであり、しかも必ずしも言語化できるものばかりではありません。わかり合うためには、粘り強いコミュニケーションが不可欠であり、まずは互いの違いを認め、尊重し合うことが重要なのではないでしょうか。
※脳にある3つのフィルター
脳には2つの伝達経路があり3つのフィルターがあることがわかっています。
・第1のフィルターは五感から外界の情報を脳に届けるボトムアップのプロセス
・第2のフィルターは情報が脳に届いた後、それに対してどう感じるかを「知恵ブクロ記憶」に問い合わせるトップダウンのプロセス(知恵ブクロ記憶は経験から構築した脳内モデル)
・第3のフィルターは認知したことや感じたことを、実際に行動や反応として表現するかどうかというもの
・最後に、私たちは実際に行動した結果をフィードバックして時事刻々と予測を書き換えていきます。
このような一連の過程を私たちは「心」と感じているのです。
その人にとって何が重要か、どのように感じるかはその人の過去の経験や個人的な感情の処理能力に依存しています。そのため、同じ事象でも人によって感じ方が異なります。
誰一人として同じ人間は存在しないのです。同じ人であっても、その時々に知らず知らずのうちに濃度の濃い「典型例」を演じているにすぎないのかもしれません。
もっと突き詰めていくと、私というものも、自己の記憶の中で形成された「典型的な自分像」を演じているに過ぎないのかもしれません。それは他者が期待している自分像かもしれないし、これが自分だと思っている自分像かもしれません。
人間の細胞は日々入れ代わっています。細胞を構成する分子や原子のレベルでいえば10年前とは別人と言っても過言ではありません。
ただ1点「あのときああだったよな」というエピソード記憶が連続しているからこそ私たちは、連続した自己を信じているに過ぎません。
💬 私は自分にとって自分の人生とは「記憶の積み重ね」であり、記憶を少しづつ進化させながら自分で物語を作っていくものなのだと考えています。本書では記憶は思い出すたびにゼロから作り直しているとも言っていますが、エピソード記憶の連続については特に興味深く読ませていただきました。あまり他人とこのような話をする機会がないのですが、本を読むことで自分の考えもまとめていくことができます。何よりも決して間違った考え方ではないことを知って安心しました。
性格~性格診にハマる若者たち
そもそも、なぜ私たちは、占いや性格診断を信じてしまうのでしょうか。なぜ人間は何種類かに分類されると思えるのでしょうか。こういうものは本質主義の典型例のようなものです。
初めて会う人なのに、この前に会ったあの人に似ているという感覚も無意識に似ているところだけを探すということによって生じる錯覚です。確証バイアスと言われる自分の仮説を支持する証拠だけに注目し、反証する情報をわざと見過ごす脳の性質に起因すると言っていいでしょう。
若者の間で流行しているMBTI性格診断は学者が提唱しているものではなく科学的根拠が薄いという批判があります。多くの人に受け入れられているのは、少なからずそれが当たっていると本人が思うからでしょう。
では、私たちの性格はどういう仕組みで決まっているのでしょうか。
脳の中では、シナプスに含まれる神経伝達物質を放出する「送り手」とそれを受け取る「受け手」がリレーをしています。受け手側の細胞には受容体と呼ばれるタンパク質があって、その種類や多寡によって伝達効率や情報の質が変化します。
これらの物質はただ放出されるだけでは不十分で、重要となるのは受容体の「はたらくタンパク質」です。
遺伝子というのはタンパク質の設計図であり、これに基づいて受容体を作るのか作らないのか、どれぐらい作るのかが決められています。
私たちの気質や性格が脳内物質の放出と受容で決まるとしたら、性格も遺伝するというのは完全に否定することはできない事実です。しかし遺伝子の転写・翻訳は生後の環境によって変化することもわかっています。
脳の神経回路は経験によって柔軟に書き換わったり、受容体の発現パターンを自由自在に書き換えたりする可塑性という性質を持っています。
ある遺伝子をたくさん持っているから、あるいは持っていないからといって、それが結果としてその人の性質を決めていると考えるのは非常に危険な考え方と言えます。
💬 私の若いころは血液型占いの全盛期でした。おそらく信じている人はいなかったと思います。それでも会話が行き詰まったときなどは血液型を聞くと盛り上がるということがありました。面接で血液型を聞かれて盛り上がったという話も聞いたことがあります(結果は残念なものだったようです)ちなみに我が家(私、夫、息子、娘)は全員AB型です。そもそもAB型夫婦が珍しいようですが、さらに家族全員が同じなのでイロイロと言われることがあります。4人ともちょっと変わっているというのは事実ですが、変わり方(変人ぶり?)は同じではありません。性格診断などで何かしらの分類をして、「仮にこう考えてみる」ということで苦手な人とも関わりやすい面は確かにあるでしょう。それでも絶対に忘れてはいけないことは、人は一人ひとり違うということ・・・ちょっと分かったような気になっちゃうことがあります。気をつけなければと思いました。
感情~内面を言語で表すのは難しい
日本語では心を「喜怒哀楽」の4つの基本感情で捉えています。
心理学における基本情動は、怒り、喜び、悲しみ、驚き、嫌悪、恐怖の6つに分けていますが、このようなカテゴリー分けは現実を大幅に歪める可能性があります。
そもそも感情の経験というものは、個々人によって大きく異なります。感情の理解には文化的背景、個人の価値、過去の経験などが深く影響するのです。
『マイヤーズ心理学』という心理学の教科書の名著には、エモーションは身体喚起、表出行動、意識体験の3つの要素から成り立っていると書いてあります。
・身体喚起とは、心拍数の上昇や手汗、鳥肌など身体的な反応のことです。
・表出行動とは、涙が出る、笑顔になる、などの外に向かって示される行動のことです。
・意識体験とは、身体的な感覚や表出行動を自分自身で認識し、それがどのような感情状態を意味するのかを理解する過程です。
情動はあくまで生理的な反応やその表出であり、それを言語化し社会的・文化的な文脈の中で解釈したものが感情になるのです。おそらく上記の3つ目の意識体験が強いていえば私たちが日常で用いる感情ということになります。
💬 「エモーションを感情と訳すのはやめてほしい」と毛内先生は強く発信しています。若い世代が使用する「エモい」と「エモーション」はニュアンスが違っているのでしょうが、多くの場面でエモーションは感情という意味で使われているように感じます。このようなことに注意することが読解力向上につながるのだという学びもあります。
ストレス応答~アラートシステムが発動
生物にとってみれば、環境の変化は全てストレスなのです。残念なことに外部環境はストレスにまみれています。
そこで、生命は、自身の環境を一定に保つために仕方なく自分自身が変化することで、その変化を元に戻す、あるいは戻せない場合は自らを変えて適用することで、できるだけ変化を少なくしようとします。このような過程は一般に「ストレス応答」と呼ばれています。
私たちの体に存在する無数のセンサーは、外部環境の変化を感知し、その情報を脳に届けて、適切な応答を促します。
必要な情報を取捨選択して、変化が大きく特に注意が必要な情報だけを選別しています。このときは通常の自動運転モードからアラートシステムが発動するようなものです。
このような状況では、過去の記憶を総動員したり、今この状況を学習して次に生かそうと学習能力が一時的に高まったりします。このとき、強い情動体験が生まれます。
この強い情動体験は、心拍や血圧の上昇など身体喚起として表出します。私たちはこれを文脈や状況に照らして、知恵ブクロ記憶から恐怖感や高揚感、場合によっては楽しいとか嬉しいという感情を生成し経験するのです。
脳はなぜ心を作り出す必要があったのか、という問いにあえて答えるとすれば、ストレスに迅速に対処するためと言っても過言ではないのです。
💬 ストレス応答という視点は新鮮でした。人間の脳は狩猟時代からあまり変わっていないと言われているようですが、現代は何を危険と感じるかが違うだけということでしょうか。外的環境の変化のすべてがストレスという考え方はとにかく面白い。アドレナリンやコルチゾールのことも詳しく書かれています。氾濫している情報に惑わされないようにしっかり知識を身に着けておくことは大切だと思いました。「変化しないために変わり続ける」という表現も面白いです。
それでは、ここまでの「まとめ」をしましょう
「心」は人間が持つ本質主義的な考え方から生まれる幻想です。
「心」と私たちが呼んでいるものは、情動の解釈によって再生成されるものです。
「心」は単一の実態ではなく、その時々の状況や環境に応じて変化するものです。
「心」は外部の環境が変わることに対応して変化し続け、その変化の過程の中で形づくられていくものです。
「心」とは私たちが「現実」をどう切り取るか、どう解釈するかに深く関わっています。
では、現実とはいったいどんなものなのでしょう?
現実~極めて主観的なもの
現実をどのように捉えるかの基準は個人によって大きく異なります。
同じものを見ても、それをどのように感じるかは、個人の経験と記憶によって異なります。
私たちは自分自身の認識を通じてしか世界を理解できないのです。
自分がこれまで経験したことによって形成されてきた閉じた世界の認識が基準となるため、他の人も同じようにしているだろうと認識してしまうこともあります。
一人ひとりが異なる経験をし、異なる感情を抱き、それぞれ自分の物語が存在します。
それを相手に伝えるには、粘り強いコミュニケーションが必要なのです。
💬 このような概念を共通のものとして可視化するために文学やアートは必要ということです。私はヘッセが好きでよく読んでいますが一番好きで何度も読んでいるのは「シッダールタ」です。はじめて読んだときにはノーベル文学賞作家が「ことばでもって言われることはすべて一面的で半分だ」と書いていることに驚きました。どんなに修行しても自分は自分のことを何も知らないという孤独感、最後に川の流れから悟りを得る過程に関しては、私の生活に多くの気づきを与えてくれました。驚くべきことはまだ脳科学も心理学も成熟していなかった時代に大変な洞察力で書かれていることです。毛内先生は文学に精通されているようで、本書にも漱石の「夢十夜」のことが出てきます。今後、機会がありましたら文学論も書いてくださると嬉しいです。
おわりに
本書は、こころの正体について、できるだけ冷静に分析してみました。
心にまつわる悩みというのは、決してあなたのせいというわけではありません。これも脳という臓器の持つ不合理でどうしようもない副産物に過ぎません。それを知ることで悩みすぎず、心に振り回されない自分になれるのではないでしょうか。
💬 私は心理学や哲学の本から多くの学びを得てきましたが、最近になって脳科学が面白いと感じています。我が家は娘が精神保健福祉士で心理学や哲学が大好き。息子は根っからの理系人間。子育て中は兄妹の会話がかみ合わないことが悩みでした。ところが息子が大学の副専門の科目で脳科学を学んだことで変化がおきました。心理学・哲学と脳科学(理系的な考え方)はコンピュータのハードとソフトのような関係と考えることで、少しずつ歩み寄る会話になってきたのです。娘も今は心と脳の関係を受け入れていますし、哲学好きの私も脳科学の本を読んで面白いと思うようになりました。心理面からこう考えると人間関係がスムーズになるという切り口だけではなく、脳の機能を知ることで本当に振り回されなくなります。今はもっとイロイロな脳科学の本を読んでみたいと思っています。
本書はとても分かりやすい内容でした。ここで取り上げた内容はごく一部です。興味のあるかたはぜひ本書を手に取ってみてください。
2024/11/23 ↓ 函館蔦屋書店で行われた出版記念講演です
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