追熟読書会: 「賢くなること」は「愛されること」とイコールなのか

「賢くなること」は「愛されること」とイコールなのか

 


ダニエル・キイス著

【小説】アルジャーノンに花束を

傑作集】心の鏡(中編 アルジャーノンに花束を)

自伝】アルジャーノン、チャーリイ、そして私



「アルジャーノンに花束を」はどんな小説?


初読は30年ほど前。「アルジャーノンに花束を」は30年前も人気の作品でしたが、現在でもAmazonランキングの上位に入っている名作です。

知的障害者のチャーリイが脳の外科手術により覚醒しますが、短期間に天才的頭脳へと到達したため周囲との軋轢は避けられず、さらに退化の苦しみをも体験する物語です。中編と長編がありますが双方ともにチャーリイの経過報告の形式で進んでいきます。

傑作集「心の鏡」に収められている50ページほどの中編作品は1959年発表、翌年のヒューゴー賞を受賞しています。

その後1966年に改作された長編がネビュラ賞を受賞。

ヒューゴー賞、ネビュラ賞はどちらもSFやファンタジー作品が対象となっている賞です。日本に長編が紹介された当時もSFのカテゴリーに分類されていたような記憶があります。現在は脳科学が驚異的に進んだおかげでしょうか、文学作品として不動の地位を築きAmazonで英米文学に分類されています。
 
キイス氏は医師を目指して学費の確保のために数々のアルバイトを経験しています。船医になるなどの紆余曲折を経て高校教師になったキイス氏は、学習に困難を抱える生徒が「ぼく、利口になりたい」と言ったことが忘れられず「アルジャーノンに花束を」が生まれました。

主人公のチャーリイはパン屋で働く知的障害を持つ32歳。精一杯自分にできることをしながら日々を送っていたチャーリイの夢はもっともっと賢くなってもっともっとみんなに愛されることだった。

タイトルになっているアルジャーノンは大学の研究室で同じ外科手術をうけたネズミの名前です。同じ境遇のアルジャーノンに親近感を持ち退化していく最期の時間も共有するチャーリイに多くの読者が涙したことでしょう。

本書は経過報告の形式で進んでいくため、手術前の文章は平仮名ばかりで間違いも多く、この部分の読みにくさから本書を敬遠する人もいるのではないかと思います。それでもぜひとも辛抱して読み進んでください。

このブログは次の順番で進みます。
  • 長編のあらすじを、手術→覚醒→逃亡→退化という経過に沿って
  • ロマンスと思春期について
  • ノーマライゼーションと合理的配慮について
  • なぜ人々はチャーリイの中に自分を見出すのか


【手術】


チャーリイのもとに知的能力を改善する外科手術の話が舞い込む。チャーリイは賢くなりたいと強く思った。賢くなればパン屋の友人たちのように難しい会話ができるようになる。お母さんが自分を愛してくれる。大学の研究室で行われる様々なテストに耐えてチャーリイは手術を受けることになった。

研究室で脳手術を受けて賢くなったねずみのアルジャーノンと対面する。アルジャーノンは立体模型の迷路、チャーリイは紙の上の迷路で競争をするがいつも勝つのはアルジャーノンだった。

手術は終わったのに何も変化を感じられない。しかし次第に迷路なんかバカらしいと感じ始め、経過報告に漢字が増えてくる。

【覚醒】


夢を見るようになる。
アルジャーノンとの競争に勝つようになる。
パン屋で今までよりも高度な仕事ができるようになる。

そして覚醒。

チャーリイは賢くなっていく過程で自分は「愛されていた」のとはちょっと違うと気づく。母親がなぜ自分を嫌って施設に入れようとしたのか、今まで自分がいかに愚かだったかを理解するチャーリイー。

理解から受容へと進む中で今まで憧れの存在だった人々が自分よりも愚かな人間に見えてきて傲慢になっていく。

教養は人と人の間に障壁を築く可能性がある。周囲の人間もチャーリイを畏れ嫌うようになっていき、さらに追い打ちをかけるように過去の思い出が堰を切って襲いかかってくる。

普通の人が10年、20年かけて乗り越える人間関係のハードルをどうやって数ヶ月で乗り越えればいいのだろうか。

IQはどれだけの知能を得られるかを示すもので計量カップの目盛りのようなもの。カップには中身をいれなければならない。大量の本を読んでインプットしてみても女性と交際する方法さえわからない。女性に好意を持つと現れる母親と妹、自分の幼いころの幻影に悩まされ続けるチャーリイ。

【逃亡】


ちょうど中盤あたりで物語は大きな転換を迎える。チャーリイは手術を担当したニーマー教授と研究室の仲間達とともに学会に出席する。チャーリイはこの時には教授さえも追い越して天才的な研究結果を出しているが、自分の周囲の賢い人間はみんな偽物だったいう思いが重くのしかかる。

学会では無断で撮られていた手術前の自分のビデオが披露される。笑いながら見る人々。実験動物として扱われていることに憤慨するチャーリイ。

逃亡の決定打となったのはニーマー教授が手術前にはチャーリイは存在しなかったと発言したこと。

知的障害者にも感情はある。
家族も過去も記憶もある。
自分は手術前も人間だった。
アルジャーノンを連れて学会の会場から逃亡したチャーリイ。

チャーリイは、いつどんな状態でも自分は存在し得ることを証明したくなった。

この時はすでにアルジャーノンの奇妙な行動は始まっている。

【退化】


この数ヶ月間の奇跡的な出来事が嘘のように退化するチャーリイ。その退化さえも研究材料とし、アルジャーノンの死を乗り越えて論文を完成させる。

終盤に向かうにつれて教授との会話が理解できなくなっていることを自覚する。

チャーリイは施設に入る事を考えはじめる。可哀想な人と周囲に思われながら暮らすよりも同じ障害を持つ仲間と暮らしたいと決断する。

タイトル「アルジャーノンに花束を」は、チャーリィが一人暮らしをしていた住居を去る際に残した言葉からつけられている。

どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやてください



【ロマンスと思春期について】


本書の重要な要素は、知的障害成人センターの教師でチャーリイに手術を勧めてくれたアリスとのロマンスでしょう。強い絆で結ばれ愛し合う二人、しかし余りにも大きな障害と悲しい結末が・・・

「訳者あとがき」や自伝によると、悲しすぎるので結末を書き換えなければ出版はできないと何度も出版社に断られたとのこと。しかしキイス氏は書き換えなかったのです。

もし退化せず天才的頭脳のままだとしたらどんな結末が予想できるでしょうか。おそらくチャーリーの思考についていけなくなったアリスのほうから別れを切り出すでしょう。自分の知的障害クラスの生徒だったチャーリーから見下されているように感じることは劣等感というような簡単な感情ではないからです。

チャーリーの立場から考えるとどうでしょうか。

教養は人と人の間に障壁を築く可能性がある。
知性は愛した人々との間に楔を打ち込む。
言語は心を通わせる道ではなく障壁。

様々な表現で繰り返し語られる虚無感。

今までいかに自分が愚かであったか、愛されていたのではなく笑いものにされていたのだ。自分の本当の姿を知る痛み。
賢くなれば愛されると思っていたが喪失感しかないのです。

チャーリーは何とかしてアリスとの愛を成就させたいと考えますが、二人きりになると子どもころのチャーリーが現れて邪魔をします。この現象については「心の鏡」の序文の中でオーストコピイ現象という説明あります。(自分の身体意識が外部に投影されて起こる現象)

驚くべきことはキイス氏が精神科医でもないうえに、まだ今ほど脳科学も精神医学も発達していない時代にこのような現象を書いていることです。エビデンス抜きでも発達遅延の子どもたちと自分自身の心の動きを深く深く観察したからこそ書けた小説なのでしょう。

とにかくチャーリィのロマンスは苦しい。人々が長い年月をかけて育んでいく愛という概念を短期間で習得しようとするのだから当たり前なのです。思春期というものを普通の人は体験します。時として親を憎み親を乗り越えようとし、世間の矛盾に腹を立て、そして何とか折り合いをつけようともがく。そんな思春期を取り戻すことのできないチャーリィ。人間的な裏打ちのない知能や教育なんてなんの値打ちもないとキイス氏がチャーリイに語らせていることも胸が痛みます。

こう考えてみるとやはりどんな展開になっても悲恋物語になる可能性が高い。そのうえで、もしハッピーエンドならどうか等々考えてみてもしっくりこない。物語としての完成度を考えても本書の悲恋物語の設定は素晴らしいという結論に至るのです。

ロマンスというよりも愛のもう一つの形、チャーリイの両親の愛についても長編の大きな要素となっています。母親の罪悪感、恐怖、恥辱、世間体。このすべてにチャーリイが関係していることに父親は気づきながらも家族を大切にしようとする姿も一つの愛を描いています。


【合理的配慮、ノーマライゼーションについて】


中編の発表は1959年です。この1959年はデンマークで知的障害者福祉法が成立しノーマライゼーションという言葉が世に認知された年でもあります。

初読の30年前はノーマライゼーションという言葉も知らずに私は読んでいました。現代は大きく福祉の概念が変わったといっていいでしょう。しかし今回読み返してみても施設で暮らすというチャーリイの最終決断は決して間違っていないのではないかと感じました。

ノーマライゼーションは地域でともに暮らすという意味があります。これは社会的マイノリティと考えられる人も一般市民と同じ普通(ノーマル)の生活や権利が保障されるよう環境を整備することと解釈していいでしょう。チャーリイの暮らした時代はまだまだ社会的障壁を理解し周囲が配慮をする環境にはありませんでした。

それでもチャーリイはパン屋で働きながら地域で暮らす日々でした。高い知能という贈り物のせいで自分が完全に受け入れられていたわけではないと知ってしまったチャーリィ。可哀想と思われることと配慮は違うと気づいてしまったチャーリイ。最後は自分にとって一番居心地が良い場所として施設を選んだのです。

どこで暮らすかを当事者が選択できること。施設で暮らしているから特別な人という見られ方をしない社会がノーマライゼーションなのかもしれません。

この「特別」という言葉についても本書の中で説明されています。
「特別という用語は忌まわしいレッテルを避けるために用いられる民主的用語であって、特別が特定の人間に特定の意味を持つようになれば、彼らはまたその言い方を変えるだろう」

本書が当初はSFというジャンルに属していたることが不思議なほどのリアルさで物語は進んでいきますが、手術などのリアリティを追求するのではなく「知性とは何か」そして「自分とは何か」という問いかけが核となっています。そしてもう一つ重要なのは「存在の意義」でしょう。

やっと、というべきなのか最近はBeingという言葉で存在を尊重する風潮がうまれてきています。Well-beingという言葉もよく聞くようになりましたが、成果主義が叫ばれる一方でDoingよりBeingという考えも出てきたことは素晴らしい変化といっていいでしょう。


【なぜ人々はチャーリイの中に自分を見出すのか】


今回は短編傑作集と自伝と「長編アルジャーノンに花束を」の三冊を読んで感じたことを書いてみました。自伝や小説の解説等でキイス氏が繰り返し書いていることは、多くの読者がチャーリイの中に自分を見出していることへの驚きと畏怖です。

なぜこの実在しないチャーリイに人々はこんなにも熱狂するのでしょうか。

30年の時を経て私自身の読後感も変化してきました。年齢とともに衰えていく自分と向き合うことで、より共感できるようになったのも事実です。しかし多くの人が共感するのは自分の愚かさに気づく苦しさのような気がしています。

キイス氏は文庫版の序文として日本の読者へ向けたメッセージの中でこう書いています。
「知識の探求に加えて、われわれは家庭でも学校でも、共感する心というものを教えるべきだと、彼(チャーリイ)は示唆しているのです」

キイス氏の熱意と観察眼の鋭さ、心理描写こそが小説であるという強い思いを、チャーリイを通して語っているのです。


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